仙台伊達藩


東北の雄藩として名高い伊達藩は、武術が非常に盛んで流儀の数も多く、系統も数多く分かれていった。一応、藩に記録が残った流儀を掲載するがそれ以外の流儀も存在することも明記する。
新陰流  願立流

軍   学 東軍流、甲州武田流、謙信流、北条流、正傳流、小幡流、長沼流、恩地流、楠流、神武流
射   術 日置流(大弓方共に)、雪荷流、武田流、武田流弓法鳴弦蟇目、印西流、竹林流半弓術、当流半弓、八幡蟇目流小弓、三好流由全弓・玉箭弓、田原藤太秀郷流、日置流   
※日置流は吉田助左衛門景綱を祖とする大弓と日置弾正忠豊秀を祖とする二系統が入った。
馬   術 高麗流八条家、八条流
軍   馬 山形流、二条流、二宮流、大征流、武田流
長   刀 鈴鹿流、寂影流、聖徳太子流(静流とも)、静流、穴沢流
槍   術 本心鏡智流、岡野流十文字槍、新陰疋田流、日下一旨流、風伝流、鎌宝蔵院流十文字槍、清堅流管槍、大嶋流、心眼流、神道流、健月流、山本無邊流、一心無刀流
鉄   炮 御流儀鉄炮(二系統)、不易流、南蛮檪木流、中筒流、統一流、三極傳東条流、井上流、生流斎智之法、種子島流田丸家
剣   術 新陰流兵法、新陰流、願立流、新陰流兵法、柳生当流、柳生心眼流(心巌流とも)、当田流(管槍併傳)、心陰柳生流、柳生貫流、呪詛柳午流、神道流、八条流、守真一流、愛宕夢想傳理方一是流、剣徳流、一刀流、四兼流、林崎夢想流(居合兼る)、念流、殿面流、山崎流(小具足併傳)、今川流、三上流、無邊流(槍併傳)、山本無邊流、的心流、教外流、三富流、前鬼流、首座流、天流(二系)、天流坂ノ下流、長岡兼流、円流、楠向顔流、戸田流、戸田夢想流、大円鏡知流、真陰柳生流、戸田新知流、春日夢想流
居   合 今枝流、一宮流、宮流、影山流、心極剣流、越香新流、以心流、今川兼流・長岡兼流(併傳)、霊一流、今川流、禪心流、真覚流、前鬼流(柔併傳)、林流、道坤多宮流(居木太刀並関東棒)
柔   術 真極流、制剛流、西法院武安流武者取柔、四天流、日下夢想流、水流、前鬼流、菊丸〆流
捕   手 荒木流、禪家明傳流(縄)、不動夢想流、心眼流(小具足)、新岩流(居合)、無双流
棒   術 永盛流、一真流半棒、唯一心流、勘当流、熊谷流(小太刀、杖、鎌)
和術防木 山本無邊流
三ツ道具 三徳当流
鎌   術 藤田流
捕   縄 大征流、竹之節流

 武技標目の分類はあるものの、柔術・捕縄・小具足が顕著な例だが、併傳した綜合武術が多く重複している場合が多い。伊達藩では剣術は新陰流、槍術は本心鏡智流、居合は影山流を御流儀として重視し、多くの藩士が進んで稽古をしているが、一流一派の継承者であっても他流を学び創意工夫を加えて新たな一派を起こす人も多かった。


伊達藩傳新陰流兵法

  狭川新陰流

 伊達藩に狭川新陰流兵法が伝わったのは延宝五年(一六七七)に狭川新三郎助直が腕自慢の伊達藩士十数名を試合で破り、藩主綱村の刀法指南として三百石で仕えてからであった(新陰流そのものは上泉系の高島覚左衛門貞長が仙台に伝えている)。

 助直の先祖は上野亮助正の代に大和国狭川城に移り一万石を領したことで狭川姓を名乗った。隣接した柳生家(当時、千石)よりも大きな地方豪族であった。助正の孫甲斐守助貞は織田信長に仕えたが信長死去に伴い狭川城も落城する。甲斐守助貞が新陰流流祖上泉伊勢守秀綱の門人で、上泉が上洛した永禄年間のときに入門している。甲斐守助貞から子の新三郎筑前守助延、筑前守助延からその子新三郎助直と三代にわたって新陰流を伝え俗にこの系統を狭川新陰流もしくは狭川派新陰流という。

 新三郎助直は柳生但馬守宗矩にも入門し、柳門下の四傑の一人と称された。新三郎助直の生まれは寛永十八年(一六四〇)なので宗矩の没年(一六四六)で七歳、宗矩の子十兵衛三厳の死去時(一六五〇)でも十一歳のため柳生宗矩門下の四傑とするのは難しい。武芸流派大事典では年代的に無理があるとして否定している。

 この系統に伝わった玉成集の系譜をみると但馬守宗矩の門人は狭川助直の父狭川助延(助信)であることがわかり、武芸流派大事典の考証が正しいことをものがたっている。したがって柳門四傑と呼ばれたのは助直ではなく、父の狭川助延ということになる。思うに狭川家没落後、同じ大和国の柳生家を頼った可能性が高く。家伝の新陰流も不完全になっていたようだ。

  狭川助直は柳門四傑と呼ばれた父助信をも凌ぐ達人であったらしく、松島瑞巌寺の住職天嶺和尚に仏法を問うために訪れた際に座側に飛来した雀を手に持った扇子でそっと押さえ、しばらくして扇子をあげて飛び去らしめた。この間助直は顔色も変えず態度も平素とまったくかわらなかったという。当初、武夫と侮っていた天嶺和尚であったが、この行動を見てその人物の立派と修行の高さを知り、以後親しみを厚くしたという。

 狭川助直には子がなく大和国森島氏の子新之丞助久を養子とし後を継がせ、又代々の武芸が絶えるのを憂いた藩主の命で、門人桜田彦七郎に狭川姓を名乗らせ分家(百石)とした。狭川派新陰流は助直―助久―右将―助克・・・と明治までおよんだ。この内、喜多之助助克は助直以来の最も優れた武芸者で、師範家柳生但馬守俊則が「予の及ぶところに非ず、しかも教を求むるの志厚ければなり」と絶賛するほどであった。

 助久には優れた門人が多く、特に奥儀を得た永井尚志はその筆頭とされる。師助久の死去後はその分を弁え、遺児右将を守り立て奥旨を伝えている。又門人を教えるときは常に気を練る修養を旨としたという。永井は宝暦二年に歿するが、その三日前に高弟吉田山三郎良知・高田次郎兵衛信時の二名に一切の秘奥を伝えた。

 狭川助直の門人狭川清治(助直との関係は不明。別家とある)の系統も、清治―弥門―弥代治―清弥と伝わった。狭川弥門(弘化・嘉永頃の人)の元に商人が入門したとき、弥門は三十日間毎日道場を駆け回らせるだけで一度も剣術を教えなかった。商人がその理由を尋ねると、「商人が剣を学んだところで何の利益もない。若し危ういことがあったら速やかに逃げるがよい。それで駆けることを教えたのだ」と答えた、剣を持たずに気合をもって相手を圧する術(気合術、無刀取)を授けた。商人は大いに敬服したという。

  新陰流(上泉系)
 流祖上泉伊勢守秀綱の新陰流師範高島覚左衛門貞長が仙台に来て門人を取立てのが、仙台における新陰流のはじめとされる。その後、五世の孫軍左衛門まで代々藩の師範役であった。

 覚左衛門貞長の門人渋谷又三郎武敬は剣術をもって正徳三年に番外士から大番士に、享保三年には百五十石に加賜、同五年に藩主吉村の師範役となる。子の門之助も藩主吉村に仕えた。又三郎武敬四代の孫又三郎寛之も藩主の師範役となっている。

伊達藩における新陰流の人々 
  熊谷五郎兵衛昇尚は渋谷又三郎武敬の門人で、享保元年番外士、同三年に番入を命ぜられ、藩主吉村の相手を勤めた。その三代目源蔵と源蔵の弟田代周助は共に名誉の聞こえが高かった。

 高橋權之丞は御鍛冶方棟梁であったが渋谷又三郎ついて秘奥を極めた。又三郎の嫡子門之助に奥義を伝え、藩吉村の稽古相手を勤める。享保三年に大番士に列せられた。藩主吉村の師範とし著われる。大番士高橋慶治はその三代目に当たるが、代々家業人として知られた。

 石母田喜七成明は宗村時代の人で、狭川助久と永井覚弥に学んでその奥儀を極める。永井覚弥の竜弥は寛政時代に有名となった。

 桜田伝之丞時誠は今枝流剣術・高麗流馬術・日置流射術の奥儀も極め、重村以下三代の藩主に仕えた。

 目黒資安は宝暦・明和頃の人。達人として知られ、小斎の湯原門之助は十三代の伝承者で慶応年間の人である。

 石川謙蔵は藩主慶邦時代の家業人である。

 菱沼勤一郎は梅荘と号し、剣を善くしたしたという。明治十年西南の役に従軍し功を立てる。のち宮城県警察部にあった。

 宮沢謙吉は大正初年まで仙台第一中学校等で青少年に教授した。青壮年時代は袋竹刀を愛用して、素面素籠手、真剣勝負と何等異なることがなかった。

 井伊直人は伊達政宗の家臣である。父直江が慶長五年松川において佐竹氏との戦で討ち死にしたときは十四歳。松川の役で井伊直江に危急を救われた砂金三右衛門は、直人の武技に熱心でないことを慨き、訓育を息子の三十郎に託してこの世を去った。直人の妻さだは三十郎の娘で、才色兼備、薙刀を持っては大和流薙刀の名手でもあった。さだは祖父の意をついで夫の武技を励ました。直人は家を出て修行すること三年、妻の薙刀に屈して更に三年を柳生宗冬のもとで修練して帰郷した。この時は妻さだは技を競うことを辞して、酒席を設けて夫の労苦を犒った。父の道場を修復して藩士に新陰流を教え、後に千石を領するに至ったという。


  願立流
 俗に松林願立夢想流、または無雲流。祖の松林左馬之助永吉は常陸国鹿島の人、あるいは信州松代の人ともある(『伊達家旧臣伝記
』)。

 十四歳で剣に長じて幕臣伊奈半十郎忠治に仕えて武州赤山に住し、自ら願立流と名付ける。寛永二十年に伊達忠宗は伊奈氏を通じて
三百石で召し抱えた。ある人が「源豫州(源義経)は柳枝を研り、八断していまだ水に落ちざりし」と、その技の軽捷を称するや、永
吉も試みて柳枝を斬ること十三截に及んだので、見る者その鋭くかつ軽妙なのに驚いたという。

 慶安四年正月二十四日、将軍徳川家光、永吉の妙技一見し、切支丹伴天連の術を用いたのではないかと、その技神に入るを賞して都
時服三襲を賜った。将軍また曰く「身の軽きこと蝙蝠の如し」と。後に薙髪して蝙也斎と称し、入道して無雲と号す。

 永吉の菩提寺仙台新坂通功徳山荘厳寺の供養碑に切支丹の彫刻してあるのも奇というべきである。永吉は常に武人の心得を語り、自
分にも常住座臥隙あれば衝け、もし自分を驚かす者があったらその望むままに賞を与えようと約束した。

 年季三年で奉公していた女中もこれを聞き、一夜永吉が酔歩蹣跚として帰邸し障子を開けたまま敷居を枕にして睡ったのを、この時
とばかり障子を力に任せて押した、永吉は徐に目を開けて笑うのみであったが、見れば鉄扇を敷居に横たえて障子が閉まらぬようにし
てあった。

 ある日、足を洗う湯を命じ、女中は熱湯を差し出した。永吉は、

「何ぞ汝に欺かれんや」

と水を命じた。女中は急いで大桶を持ってきてそれに注いだ。片足を入れた永吉は焼くばかりの熱湯に驚いて足を上げた。湯は前にま
さる熱湯が入れられていたのであった。

 永吉は、

「婦女子といえども仇敵の寸隙を窺って怠らなければ、大丈夫であっても打ち取ることが出来るのは誠にこの通り」

だと言って、約束のごとく三ヶ年の給金とともに暇を与えたという。
 
 毎日太刀を素振りすること千度、寛文七年七十五歳で没する日も床上に坐して太刀を素振りして修練の厳しさを教えた。

願立流の系譜
 伝承者は二世佐藤喜兵衛尉・三世大僧都法印乗光院・四世伊藤善内・五世鈴木一翁斎・六世三浦岡雲斎・七世遠藤清之丞定尚・八世三橋幸之助広教・九世佐藤槇之助親章となる。九世佐藤親章は加茂氏の書法をよくし、文化六年松前の役から帰って後は専ら書法をもって子弟を教え、柳水軒と号す。

 跡部七左衛門道是は、慶安四年蝙也斎とその妙技を徳川将軍家の前で演じて名剣ぶりを賞された。

 角田邑主石川氏の臣佐久間安五郎は願立流の秘伝を得、天保年中に永吉十四代の孫松林永敬にその奥儀を伝えた。

 不殺剣を創めた上遠野伊豆守常秀も門人であった。伊豆守常秀の手裏剣も永吉からその手解きを受けたといわれている。しかし伊豆守常秀は馬具・武具を作る皮縫針にヒントを得て独特な護身用武器を創案して不殺剣と称した。

 伊豆守常秀は三千石を領する身分であったが、腰の大小を不自由不便な重荷として用いず、掌に収められる不殺剣四本ずつを耳の上の鬢に忍ばせる工夫をした。すなわち敵の害を防いで生命を奪わず、その戦闘力を除くことに役立てた。これは伊達家奥女中衆から水戸徳川家大奥に伝わり、さらに桑名藩にも伝わった。俗に上遠野流手裏剣と呼ばれる。

 後年、紀州徳川家の御曹司がフランス留学時に随行した家臣の護衛が護身用に持参していた。このときは使用することが無く、同国博物館に東洋の武器として寄贈された。これが昭和三年におこった第一次世界大戦において飛行機の攻撃用武器として使用された。落とすと垂直に刺さる不殺剣がフランスの兵器我係の一将校によって採用されたのであった。

 ドイツの騎兵密集部隊に大きな損害を与えたが、これをドイツ軍が大砲の弾丸に羽をつけた爆弾に改良してフランス軍に報復したのである。「十七世紀の伊達家の武器が変じて、不殺剣ならぬ二十世紀の爆弾となった」、と新聞で大きく報道された。