合気道を少し       

Writeran By Hmada&Naruto

第一回

 門外漢の武道家・武術家の話を聞くと合気道に関して的外れな意見が多い事がわかる。

 しかし、「古式の形」の解説等をしていただいた鈴木鳥松先生が最後に「起倒流を理解するには合気道を学ぶと良い」、といわれたことを今でも忘れないでいる。

 古武道とくに起倒流を理解するための重要な位置に合気道があることを研究者は知るべきである。もっとも合気道の歴史的研究は非常に浅いので、訂正等があればご連絡いただけるとありがたい。

 合気道は植芝盛平翁の年齢と共に変化をした武術で、極初期は大東流が色濃く残っていたものの、壮年時代は自らが動き回る独特のもので塩田剛三師範がよく体現しています。あのような動きが大東流にあったとは思えない。

植芝盛平翁 最晩年の稽古風景
片手で持った木刀を数名の門人に押させてもビクともしない。


 戦後すぐくらいの技法はまだ大東流の趣は残っていて、四方投げについて腹の力で相手の手を挙げる形をとっていたそうです。これは所謂「合気之術」とよばれる技法の名残りであったらしい。実はこの部分に関しては、まだその過程に不明確な部分が多い。

壮年の頃は大東流合気柔術の複雑な関節技や柔術的な投げを教傳していた。


 そして技法が整理されてゆく過程で、一つの技法を三段階から四段階(もしくは五段階)に動きができゆき、流体や気体と呼ばれる現在合気道を代表する流麗な動きが生まれたようです。

 この過渡期に当たるのが斎藤守弘先生の系統で、海外で「岩間スタイル」と呼ばれる合気道です。この技法は斎藤守弘先生のご子息が良く継がれている。

 現在、「三十一の杖」」と呼ばれる杖術の動作が三十一に分類されたのもこの頃だそうです。それ以前、例えば藤平光一師範のときは三十一よりも分類が少なかったそうだ。

 合気道には、その技法過程に不明な部分がまだある。例えば当身についててだが攻防一帯による当身、もしくは入身による当身で構成されている。縦拳か甲が下を向く古流を継承し、中高一本拳(鬼拳という)の握りで突く。また両拳を同時に使う方法が伝わっている。

 大東流関連師範の当身は系統によって異なることが多く、むしろ拳を捻る空手に近い突きすることも多い。植芝翁の修業過程の流儀に答えがあるのかと思い「関西傳柳生心眼流」にあるのではと推測してみた。幸い武道雑誌のS副編集長にお会いする機会があったので質問してみると、心眼流には両拳で同時に突くことは無いとのこと。

 関口流からでた天羽流の系統に両拳で突く動作があるので、そういった影響が何かしらあったものなのか謎が残ってしまった。

合気道の様に近代から現代で形成されたものですら正確な歴史を知らないとは実に情けない話であるが、まだ始まったばかりとおもってさらなる研究をしようとおもっているのです。


第二回

 植芝翁の師である戸澤徳三郎について、弊誌「文武館」の初期に記述したように実在する人物であるが、その証拠となる文献や門人が分からなかったので合気道の後期書籍には「戸張瀧三郎」と混同してしまっている。

 茨城県の柔道家に門人がいたためその存在が証明されたし、戸澤が門人の中嶋に発行した伝書を見ると、天神眞楊流によく似ていることがわかった。この伝書は残念なことに断簡となってしまっていたが、オークションで完品がでたことがある。

 現時点では戸澤が起倒流を伝えた証拠を入手できていないが、明治期には嘉納治五郎の影響もあってか併傳する人が多く、植芝翁が戸澤から天神眞楊流及び起倒流を学んだ可能性は否定できない。

 佐治芳彦著の『謎の九鬼文書』に植芝翁が九鬼神伝の伝書を三巻所持していると語った話が書かれていた。普通に考えれば大東流合気柔術の伝書だと思う。大東流の初期には秘伝目録と秘伝奥義之事の二巻のみだったとも言われ、その後に伝授巻が増えたとともいわれている。

 もしそうであるならば九鬼神伝の伝書といったのは偽りということになる。おそらく武田惣角から脱して新流儀をたてたいという考えがあったために行ったのであろうと考えられますね。人間植芝盛平の部分だったと思います。

 近代の武道家を語ることは非常に難しい。直門人は良い所も悪い所も直接見ることができますが、その下の孫弟子・曾孫弟子なると達人という部分だけが伝わり、より神格化されてゆきます。もっと問題なのはそれらの人の一部に虚構を話はじめる人がでます。師を神格化することで自らの地位を高めようとする心の貧しい人です。

次回は合気道と起倒流柔道の共通点と相違点に触れてみましょう。



第三回

 剣術は形そのものは同じなのですが、初期から戦後すぐの合気剣は一般的剣術形のような動きで徐々に柔らかくなってゆく感じでしょうか。一般的な道場では剣術はやらないか、やっても重心がブレないように柔らかい動きになっています。

 杖術は教える人によって技法が若干異なります。これは植芝翁の年齢的なものがあるでしょう。

 合気道の当身は古流柔術は少し異なっています。一つの動きの起こりや終わりに当身を入れることが結構ありました。当身七分、投げ三分というのも何となくわかります。

 

合気道最強の男
 現在の合気道は試合を前提に教えているといより護身としての意味合いが強く、「和の武道」とよばれるように衝突することを嫌う武道であることを広めています。

 とはいえ、戦前戦後とくに戦後の混乱期を生き抜いたわけですから表向きは異なり危険な武道であったのです。事実、植芝翁の直門人は、実際の戦いで合気道が使えたという事実を無視することはできませんね。

 合気道最強の男、これを聞いて塩田剛三師範を挙げる人もいるでしょう。斎藤守弘先生かもしれません。山口清吾先生も凄い強い先生だったと聞いています。その他にも挙げたらきりがありません。しかし、合気道最強の男は、こういった師範方ではなかったようです。

 私も人づてに聞いたものなので眉に唾をつけ聞いてください。聞いた話なので名前は忘れてしまったことにします。仮にその人物をA氏としましょう。このA氏という人物は強いということでは植芝門下で右に出る人はいなかったようです。

 そしてヤクザと抗争を始めてしまい、最後に簀巻にされて惨殺されてしまったそうです。このような手段をとるということは、正面切っての戦いでは勝ち目がないほど強かったということです。

 このA氏という人物は他流試合も相当やっているようですね。合気道側からも他流武術側からも、A氏という人物の名前がでないことが逆に信憑性があります。「和の武道」を唄っている合気道側としては歴史から抹殺した方が良い事だし、道場破りされた側からは話をしたくはないでしょうね。

 伝わっている道場破りについては一つ。ある道場に挑戦状を送って試合をしたそうです。恐るべき強さをもったA氏が微動だもできないほど固められてしまったそうです。A氏の完敗です。

 相手の武道家の名前は、佐川義幸。そう大東流合気柔術の達人佐川師範です。

 今回はこの辺で終わりにしましょう。次回は「多人数捕」について記述しましょうか。



第四回
 多人数取は源流の大東流合気柔術から合気道を含む合気系武術の特徴ともなっています。

 しかし、大東流以外にも同時期に生まれた神道六合流にも「百人捕」という多人数取があります。百人取という名称の技法は関口流にもあるので、竹内流開創時期から江戸時代初頭に多人数取の発展をみることができます。特に居合の流儀は四方の敵に対応するように作られています。

神道六合流の百人捕


 合気道の源流である大東流は一刀流との関係が噂されていますが良く分かりません。大東流の多人数取と一刀流の関係を最初に書物にのこした人は鶴山晃瑞師範でしたが、武田惣角の時代にどのような説明がされたのか分かりかねます。

 大東流と神道六合流の関係を説く人もいますが、私はまだ明確な証拠はつかんでいません。明治から大正にかけて帝国尚武会では師範認定をしていますが、現在知ることが出来たのは茨城関係の武道家です。今後、帝国尚武会の資料がでれば謎が解けるかもしれません。

 神道六合流の百人捕は頭突きからはじまります。合気系の影響をうけた中澤蘇伯が開創した中澤流護身術の多人数取も当身から入ります。大東流の初期がそうだったのか、そのような方法もあるのか判然としません。大東流の全貌が見えませんからね。

植芝翁の大東流合気柔術『八方散乱』。合気道にも引き継がれている。


 一刀流系統には「分身八方須臾転化在前忽焉在後」という記述があり、「分身八方須臾にして転化す、前に在るかと思えば、忽焉として後に在り」とあって、一つの場所に居着かず身の抜け開きをして、八方に散乱して大勢を制することをいう。「八方分散」「八方分身」といった名称でよばれるが、正式には「八方散乱」とある。八方に分身散乱して多勢を制するが、闇雲に動くのではなく身の開き・抜けといった動きが巧みであれば、敵と敵がぶつかり我と対峙するのは常に一人となる。本来は八方を取り巻かれないように動く事が肝要となる。
 
 一刀流には、「端に立たる人にかかりて制す」「端の人へ身をのけるように動くべし」「真中へかかりて包まれぬようにすること」「敵を後へ受けぬように動く事」といった教えがある。ゆえに、「八方一方」といって、

「どれほど大勢であっても八方へ身を抜け転化すれば我に当る者一人なり。その一方を能くみて制せよ。八方の人も我巧者なれば一時に懸かり当る者あらず。大勢とみて敵に神気を奪われるる事勿れ。八方より取り巻かるるとも八人を相手と思うべからず。敵は只一人と心得るべし」

とある。また「一體分身」とあって、身の抜け開きをいう。

「一人の身にして八方の敵に応じ、四方四隅へ身を転じ、一つのところに居着かぬようにする」

といった教えがあるのは興味深いところです。

 起倒流にも多人数取があります。諸手取・二人取・四人詰がそれです。四人詰は単純に四人ではなくそれ以上の人数を相手にする多人数取を差します。

 明治期の印刷物の起倒流伝書に大東流と同じ三人取の取口があるのは興味深いことです。また平法学小太刀の小具足に相手の脇を抜ける多人数取がありました。実に興味深いですね。というのも後方からしがみつく大殺のように下へ抜ける技はありますが、相手の脇を抜ける技法は大東流以外にみることがあまりないからです。もっと深く他流を探せば似た技法を見つけることができるかもしれません。

 最後のは嘉納治五郎師範の「古式の形」の體です。最後から二番目は鈴木鳥松先生の先輩にあたる久原義之先生です。

 久原先生は起倒流柔道を伝えた数少ない柔道家です。私が連絡した時には病院に入院されておられ教えを受けることはかないませんでした。実に残念なことです。古武道協会の花輪録太郎先生に紹介していただきました。

 そういえば花輪録太郎先生は鷲尾流柔術を学ばれたと記憶しているのですが現在伝わっているのでしょうかね。

では、また。


第五回
 最初にお断りしておきますが、以前にも述べたように合気道は一つの技が何段階かに分けてています。私が知り得たものは「流体」の極初歩の段階であって、その奥の段階になるとまた違った感覚になるでしょう。つまりここに記することは全体像ではなく、あくまで一部に過ぎないという事です。

 古流柔術や他の現代武道が合気道に最も疑問を感じるのは、呼吸力鍛練法(合気揚げ)と受け身ではないかと思います。

 源流の大東流合気柔術や大東流から分離した八光流に有って合気道にないものに「手解き」があります。

 「手解き」は主に手首を掴まれたときに合理的に掴まれた手を外す技術ですが、合気道にはこの概念がありません。

 なぜ「手解き」が無くなったのか合気道は掴まれた場所や触れた場所を大事すること、抵抗稽古において手が解けないときの対処法、諸々の考えがありますが正確には不明です。そこで稽古を順を追って見ることでわかるかもしれません。

 先ず他の武術・武道とおなじく基本的な形の手順を学びます。「正面打一教(正面打一ヶ条)」「正面打入身投げ」「片手持ち四方投げ」「呼吸力鍛練法(合気揚げ)」の4つで、これが五級審査対象の技となるのです。

 この内で「正面打――」となっていますが、最初は手刀を合わせる形から始めます。概念としては剛柔流空手の掛手(カキエ―)や太極拳における推手に良く似ています。合気道の師範はこの手刀を合わせた状態で相手の動きを察知して動きを封じることができるようになるのです。

 古流柔術にはあまり無い考え方ですが、これは剣先と剣先が触れ合う「一足一刀」の間合いということです。合気が剣の動きから出たといわれるのも納得できることです。

 とはいえ大東流に有ったのかと疑問は感じます。むしろ、この考え方が顕著になったのは植芝盛平翁の中年以降ではなかったかと考えています。

 合気道の戦闘方法は相手に触れてしまう。これは一般的な柔術よりも、むしろ太極拳の戦闘補法によく似ている部分をもっているのです。もっとも、この考え方は武田惣角の時代からあったようで、惣角は剣の達人でしたから間合いを熟知し、「先の先」をとり相手の手首をサッと掴んでしまい動きを封殺してしまっています。

では、また。



第六回
 この写真は『合気道開祖 植芝盛平生誕百年』に掲載されたもので、壮年から初老にかけての野間道場で撮影されたものと、最晩年の植芝盛平翁の稽古風景ですね。

 

  


 五十代の頃までは大東流合気柔術の影響をみるることができますが、最晩年は多くの技を捨て去り合気に特化したとも言われています。

 厄介になった合気道の道場主に指一本で抑えられたことがあります。人間の力の入れ方は一度貯めてから解き放つ、つまり高跳びの跳躍のようなかんじです。合気は、そこに別の力が入るのですが、その力には方向性が無いので抵抗しようとしても抵抗ができないという感じです。

 合気は体幹と関係があるのですが、それだけでは説明できないこともあります。人間の腕にはインナーマッスルは存在しないといわれていますが、四方投げを稽古している時に、いきなり両手がギュッと相手の手を掴むことができたのですが、まったく筋力の力感が無く、さらに四方投げで落とす(崩す)ところがわかるというものでした。

 これが入身投げの受け身の時は、ふわりと体が浮きトンと落ちるようになりましたね。自分から飛ぶという意識は無く、体が逆らわなくなります。ちなみに普段は相手の入身投げを投げられないように頑張ったりするので、この時もやってみたのですが自分の意識とは別に逆らわない、むしろ「反応」というべきことがおこるのです。これが更に上達すると相手の力を封殺することができるのだと思いましたね。

 相手をしてくれた先輩に「受け身が変ではないですか?」と尋ねたのですが「別に」と言ったけどキツネに積ままれたような顔をしていましたね。1級をもらって少したった時でした。しかし、この後半年ほど稽古ゆけず、その感覚は戻りませんでした。おそらく流体の扉を開いて垣間見た状態だったのでしょう。もったいなことをしましたね。

 技術は一教から五教、四方投げ、入身投げ、等々ほとんどのものは教えていただきました。しかし、前述の「柔変」の体作りと「反応」が出来なければ合気道ではないのです。


第七回
 柔術と合気道の違いを明確に答えることが出来る人は稀です。おおくは正確な答えになっていません。私なら次の様に答えます。

「柔術と合気道は同じです。違いがあるのは流儀としてのスタイルの違いです」

 どうでしょうか? 分かりやすいとおもいませんか。私は十代の頃に楊心古流を少し学んだことがあります。当時、30手程度で今じゃ数手覚えているだけで、しかもかなり曖昧です(笑)

 合気道は最初は堅い稽古(個体)をしますが、このときに抵抗稽古をします。これが一般的な柔術の初期と同じものです。

 大東流は明確に柔術と合気柔術をわけていますが、合気道にはその区分が無く、流麗な稽古が紹介されることが多いため武骨な抵抗稽古が一般には知られていないだけです。

 力一杯持たれた相手に技を仕掛ける抵抗稽古は、徐々に相手の力が及ばない部分を探すようになります。そして鍛練の中で「気」というものを感じ、「気」が崩すべき場所を教えてくれるようになります。前回記述したように私が到達できた極初期段階のもので、高段位の人はもっと別の感覚だと思います。

 合気道は当身が無いと思っている人はまだ多いですかね。若い時は腕力が有ったので力みがでることがありました。そのときに合気道の師範は胸や腹に裏拳や突きを入れることが度々ありました。もちろん柔術でいう「仮当」ですが、チョコンと当てるのではなくドンとくる当身でしたね。ちなみに合気会系の道場です。普通のことで特筆したものでないので、紹介されることはないのですが柔術の稽古と何もかわらないですね。

 「当身七分、投げ三分」と合気道の技術を説明したのは故塩田剛三先生です。岩間スタイルといわれた故斎藤守弘先生も当身の解説を多くされいます。

   

 合気会系でも二代道主植芝吉祥丸先生は「太刀取り、入身投げ表」の時に相手の脇腹に当身を入れています。表は当身を入れても流れが切れないことや、凶器に対して当身が有効であることを教えておられるのだと思います。

 大東流と合気道も初期段階を終わると別のスタイルになります。大東流は中核ともいうべき「合気之術」、合気道は「流体」へと変わってゆくのです。やはり、

「柔術と合気道は同じです。違いがあるのは流儀としてのスタイルの違い」



第八回
 合気系の武術における経路を使用した技ですね。イラストは植芝吉祥丸先生の著作『合気道入門』のものです。痛点をおさえる技法で合気道の四教の技術です。大東流四ヶ条・八光流の四段に含まれる技だったと思います。

 

 次が八光流の『雅勲』、奥山龍峰先生の有名な『奥山龍峰旅日記』に掲載されている写真グラビア部分です。手のアップは姉川先生の『柔術入門』です。これも有名な書籍ですね。姉川先生は天心古流の宗家を名乗っていましたが、八光流の師範でもあったのでこういった技も教えておられました。

   

 大東流では「掴み手」とか「掛け手」とかいっていたように思います。これ合気道でも教えます。ただし人指し指は立ててはいけないと教えられます。私は剣道の癖があって人指し指を立ててしまうので合気道の師に逆にとられて注意されました。雑誌に似たような話がありますが、合気道では普通の教えです。この技は裏と表があって掌側と甲側からかける方法の二手。さらに相半身・交差取の二法にわかれます。

 また痛点を抑える技は、「痛みで相手を抑えるのではなく、呼吸力(合気)で抑え、相手が返そうとすると痛点に当たるように」と教えられました。当初は掴んだときから痛みをあたえますが、上達すると上記の様に教えられました。