前回、伝統武道茨城編は茨城県における柳生心眼流について若干の記述をしました。茨城県における伝統武術は昭和30年代には多くの道場が閉鎖の憂き目に合いました。それほど昭和25年までの武道禁止令は厳しいものだったのです。しかも、日本の文化・考え方を消滅させるという目的だったからです。だから、この時期に厳しい鍛練をしたとか、道場が盛況だったなどということはほぼ嘘っ八です。
朝鮮戦争で厭戦気分の米国を中心とした連合国軍は、人民解放軍・北朝鮮軍に負けに等しい引き分けとなりました。そこで生まれたのが警察予備隊、つまり自衛隊の前身です。ちなみに、この警察予備隊は同数で米国の軍隊と模擬戦をして、ほとんど勝っているそうです。
さてと前々回、剣道の失われた技術について触れました。雑誌「撃剣倶楽部」に掲載予定文面のダイジェスト版をHPに掲載しました。「真・組討術」という大げさな題名をつけました(笑) 何らかの参考にしていただければ幸いです
Vol.12今回も伝統武道茨城編です。紀州で起こった関口流は遠く常陸国にも伝承が有りました。土浦藩に幕末まで伝承が有ったのですが現在はその痕跡すらありません。そんな中、100数十年ぶりに茨城県に関口流が入ってきました。ただし居合だけが分離して肥後に伝わった関口流抜刀術の末裔です。現在、本部は名古屋にあり茨城支部として活動しています。
この関口流抜刀術は故青木規久男師範からいくつかの系統にわかれて伝承しています。現在、宗家を名乗っている人もいますが、この流儀はその名が示すように和歌山県にある関口家が宗家です。江戸時代でいう家元です。
水戸に伝わっている関口流抜刀術は体育館をかりて夜中まで稽古をしています。「チョッと居合でも」という感覚では入門しないほうがよいかもしれません(笑) 絶対に強くなるんだ、という気持ちで入門するのぐらいの気合は必要です。
この鍛錬会には為我流の研究を押し付けてトンズラすることに決めました(笑) まあ仕事が忙しくなったのが理由ですが、私自身は基本的に人間が嫌いなので(笑)
すこし南に戻ります。常陸府中藩(後の石岡藩)があった石岡市に神道無念流が昭和後期まで残っていました。この系統は「五加五形、非打、立居合十二剣」の形以外は失傳しています。明治・大正・昭和を生き残ったのですが、平成の世まで存続はできなかったようです。晩年にはお弟子さんはいなかったようですが、現在でもわずかな希望をたよりに学んだ人を探しています。しかし、ほぼ絶望的ではないかと思います。地図は石岡市のホームページから拝借しました。
石岡市にはかつては猿橋東太郎の浅山大成流と今泉八郎の門人宮田要之助の眞蔭流柔術が伝わっていました。残念ながら現在の石岡市には伝承は残っていないようです。浅山大成流の存続は、ほぼ絶望的です。継承者に恵まれず奥さんが継いでいましたが、女性の継承者の柔術流儀は存続が難しいと言わざる得ません。門人に植竹實(大竹實を訂正)という人もいたのですが演武会の記録にあるだけで詳細がわかりません。もう少し、調べないと何ともいえませんね。
では、今回はこれまで。
Vol.13
近世(江戸時代)には、多くの随筆が残されている。中世(戦国)末期から江戸末期までの言い伝えや記録が書かれ、その内容は将の言動から下々のもめごとまで幅がひろい。そういった随筆には武芸者について書かれた事も数多くある。あまり知られていないと部分を拾い集めてみよう。
(1)真木野久兵衛の事
享保のころ牛天神(現在の文京区春日一丁目北野天神)あたりに、剣術の達人と噂の真木野久兵衛という一刀流の師範がいた。
町年寄りの旧家か豪商の町人であろうか、三人連れ立って久兵衛に入門を願い出た。
三人は、
「金銀は糸目はつけぬので、是非、免許皆伝をいただきたい」
つまり金で免許を買いたいと申し出た。
久兵衛は驚きもせずに、
「なるほど、伝授しましょう」
と答える。
その後、久兵衛は、
「きたる某日の某刻に桜の馬場で待っているように、ワシもいくので其処で伝授しよう」
と答えると、三人の町人は喜び其の日がくるのを待った。
約束の某日が来て三人は桜の馬場(文京区湯島三丁目、湯島聖堂の傍らにあり、御茶ノ水の馬場ともいっって両側に桜ともみじの大木があった)に行き、約束の夜亥子刻まで待っていると、ほどなく久兵衛やってきた。
「では、約束どおり伝授しましょう。三人ともこの馬場の端から端まで力一杯駆けてごらんなさい」
三人の町人は何がなんだか分からず半信半疑ながら伝授してくれるのだからと全力で走り出した。すると久兵衛も彼らの後を全力で追って行く。しかし、久兵衛はもとより老人のため馬場の中ほどで息切れをして倒れてしまった。三人は馬場の端までいって、久兵衛が倒れているのに気がつき慌てて駆け寄り介抱しながら、
「教えのとおり駆けました。どうぞご伝授ください。」
と願うと久兵衛は息も絶え絶えに、
「老人とはいえワシは途中で倒れ、各々方は息切れすることもなかった。これは伝授の極秘に至ったのだ。これにて免許皆伝を許す。」
といったので、三人の町人は驚き、
「先生、一手の太刀筋の伝授もないのに免許皆伝とは合点がいきません。」
久兵衛は答えて曰、
「当流は人を切る剣術ではなく、身を守る術である。戦いをこちらから求めず、相手から戦いを挑まれたら愁いを避けて、従わざるを破るため剣である。各々方は町人であるから戦いを挑まれて逃げても苦しからず。しかし、武士は逃げることが出来ない身分である。今日、某が追い付かんとしたが追いつくことができなかった。三人ともあのように走ることができれば、逃げ足の達者といってもよい。すなわちそれが極秘なのだ。」
久兵衛にとって剣術の最上は人を切るだけでなく、身を守れることが肝要と答えた。金免許の批判であり、武士と武芸へのこだわりでもあった。とぼけた返答ではあるが、その剣術の腕は確かなものであったことは次ぎに挙げる。
以下、は別の機会に。
Vol.13
今回は「野中三衛門、三井庄内を討つ事」と筆休めの「ネコ」のデッサンを1つ。震災の前後に書いたもので、これ以降は記憶に無いぐらい書いていないですね。
日向ぼっこをして、まどろんでいる所を鉛筆でササッと書いて、後でボールペンで仕上げたもの。この時、画力はかなり落ちています。この手のタッチの方が得意だったのですが・・・・。
人間は継続していると毎年2%づつ習熟するという。何でも継続していなければ力量は落ちますね。
ちなみに「画家・作家=おとなしい・病弱」というのは日本人の勝手なイメージですね。むしろ性格的には激しい人が多いです。
性格が激しいとは少し違いますが、2002年に亡くなったジョージ・ゴーディエンコという画家。身長182p、体重120キロ、元プロレスラーで最強だったのでは、と言われていた人です。ピカソと偶然に合ったりしたのが影響したのでしょうかね。名門セント・マーチンズ美術学校に通った、と言うくらいなので本格的に学んでいたのでしょうね。引退後、画家に転身しました。
ちなみにパブロ・ピカソ、大のプロレス・ファンだったそうです。レスリングの話をするほうが大好きなのですが、今回も武術の話で水戸藩にちなんだもの。誤字・脱字はご容赦(笑)
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野中三衛門、三井庄内を討つ事
三井庄内は彰考館の館庫であった。ある時、雇書生の野中三衛門政友が登館したとき、写本の配分をした。三衛門政友が、
「某病後なので写本の紙を少なく渡していただきたい」
と云うと、庄内は、
「それは臆病の仕方なり」
と答えた。三衛門政友は怒り、退館後に庄内を討ち果たすと覚悟した。宿に帰り仕度をして出かけに居合の師範某のところに立ち寄り、
「籠手落一本を請け玉れ、予が未熟心に満たず」
という。某師範はその業を請けて、
「日比の手際に如何ほどか増りしことなれば、工夫を凝らされたる上の事と見えたり。中々我等も及ばず」
と答えた。その言葉に満足した三衛門政友は庄内宅に至り、玄関から通されて三衛門政友座に着いて、
「今日史館での一言堪忍ならず」
と云えば、庄内は柔術に達せし者ゆえ、膝の上に両手のこばを合わせ、
「何儀に候や」
と詰め寄る。三衛門政友は、
「何儀とは不覚なり」
と云うままに抜打ちに切りつけた。庄内も柔術の達者であったので、指した短刀を抜いて三衛門政友の抜刀した刀の下を潜ってかわし付け入って刺さんとした。三衛門政友は二の身を折敷ながら大袈裟を切り付ける。手ごたえは浅かったが庄内が少しひるんだ所を遂に討ち果たした。術の達者同士の闘いであって、一瞬のうちに攻防が行われたのだった。
物音の異様さに気づいた庄内の女房が走り来て、その有様を見に、
「夫の敵、のがさじ」
と云えども、一刀を持たずどうすることもできない。それを見た三衛門政友が、
「血迷いしか、婦人空手(素手)を以て某に敵せんや。長刀を持来て勝負あれ」
と声をかけた。庄内の女房は、
「實にも!」
と答、長刀をとりに内に入る。その間に三衛門政友はその場を急いで立去った。殺時の人に其才智を感じさせた。
この事件は貞享元年(1684)正月二十三日の事としている。三衛門政友にとって討果すのは庄内一人であるから、庄内の女房を切るのは筋が違う。さらに無手でしかも女性を切るのは恥ずべきことになる。とっさに長刀を持ち来て勝負すべし、と一言かけて奥に行くのを見て立去った臨機応変には冷静さを感じる。
意趣討ちであったが一対一の尋常の勝負となり、庄内の女房も武士の妻としての面子も立った。
この三衛門政友には面白い癖があった。武術稽古の時、勝負を決するに手の平を地にすりつけてから刃引木刀を取ったという。庄内を討った時に、庄内家の内壁が塗ったばかりで乾ききっていなかったが、その壁に手をすった跡があったという。世人は、
「癖がでたのであろうが、時に臨んで刀を抜くのは電光の間であるのに不思議なことである」
と噂したという。
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しかし、私闘の詳細は誰が語ったのでしょうね。単なる物語でないとして、観ていた人がいたとは思えない。とすれば野中三衛門が捕らえられて語ったのでしょう。庄内が短刀を抜いていたのは現場検証で分かるでしょうし、奥方や師範某からの証言もある、ほぼ正確な話といってよいかもしれませんね。
Vol.14
一刀流真木野久兵衛について、「又、久兵衛其の術巧なる事」が抜けていたので補足として掲載しておきます。
又、久兵衛其の術巧なる事
享保の頃の牛天神の辺は非常に淋しい場所だった。この近辺の武士が剣に凝って辻斬りとなったか、よからぬ強盗の類か、坂の上から追い落としてなます切にする者がいた。所用で夜中にこの坂を久兵衛が登ってゆくと、大男が一人太刀を抜き切りかかってきた。
この辻斬りにとって今度ばかりは相手が悪かった。久兵衛はあわてず小太刀を抜き青眼に構、静かに辻斬りに相対した。かの辻斬りはその剣圧にこられきれず、徐々に後ずさりし始めた。なおも久兵衛が押し行くと、辻斬りはこらえきれずに天神の崖から真ッ逆さま落ちてしまった。久兵衛は何事も無かったかの如く家に戻った。彼の辻斬りは崖から落ちた怪我でだいぶ苦しんだが、日数が経って怪我も良くなり煙草をもとめて町屋にでた。すると同じように煙草を買い求めた老人とすれ違った。よくよく見れば、この間天神で出会った老人であることがわかり、恐ろしくなって思わず煙草屋に老人の名前を聞くと、
「あのお方は剣の達人と噂される真木野久兵衛です」
といわれ、自らの命があったのは幸いであったと感謝し改心をして煙草屋に紹介を頼んだ。
ほどなく彼の男は門弟となり、久兵衛から武術の大事などを伝えられて後、質実の武士となったという。
Vol.15
さてと石岡市における浅山大成流について記述をしましょうかね。
その前に、槍の拵について石川さんから色々貴重なご意見をコメントいただきました。ありがたいですね。彼は文武館の会員でもありまして、当初は宝蔵院流を研究の対象にしていたのですが、現在は槍全般の研究をされています。私のようなバッタ物と違いシッカリした研究ですので参考になる事が多いかと存じます。
文武館では古書部もありますので、不要になった資料を売却したい方はご連絡ください。貧乏なので買い取りはできませんが、置いておけば誰かが気づいて買うかもしれません。開店休業状態なのであまり期待はできませんが(笑)
ご連絡ださい。詳細をおしらいたします
まず最初に流儀の歴史についてですが、少々、込み入っているので*〜*まですっ飛ばしてしまって結構です。
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水戸藩主斉昭の命によって大成流(柔)は三和流・浅山一傳流・吉岡流・浅山一傳古流の四流を合わせて大成流と称した。天保十二年に八月十日に、さらに水府流と改称した。江戸藩邸弘道館の師範間々田円齊は第一の達人という、と武芸流派大事典で書かれています。
ところが、水府流剣術の項目に天保十二年八月十五日、一刀流十一代山下伊左衛門隆教・新陰流十六代久方忠次左衛門定静・真陰流十四代城戸政弥太信久が、藩主の命によって合併し、藩主水戸斉昭を流祖として伝えた。一説に北辰一刀流の渡辺清左衛門・新陰流荷見茂右衛門・東軍流の鵜殿半七の三人が、主命によって水府流剣術格三十本を作成したともいう。
「あれあれ、柔だったものが剣術に変わってしまったよ?」と思われる人もいるでしょう。これ実は、柔術なら各柔術流儀、剣術なら各剣術流流儀、水術なら水術流儀の各流儀を合わせて水府流柔術、水府流剣術、水府流水術という水戸藩の武術、つまり俗に御留流と呼ばれている流儀を作ったというわけ。
何でこんな面倒なことをしたんでしょうね。実は斉昭の当時の立ち位置を調べると、これは水戸藩の軍隊用武術を作ろうとしていたことが分かってきます。
斉昭は神發流という砲術流儀も開創したり、牛が引く戦車や三眼銃とよばれる回転式火縄銃や巨大な大砲などを作り出しだしたりしています。今の我々が見ると、「そんな鉄砲や大砲で黒船や外敵に立ち向かえるわけがない」、と笑うのですが、実は斉昭本人もこれで立ち向かえるなどと思っていないのです。黒船が出没するようになった江戸時代の人は、限られた資料(中国から輸入された漢文の書籍)から彼らが何者であるか、を分析しているのです。その答えは友好的ではなく、非常に危険な輩であると分析したのです。
海外からくる外敵に立ち向かう幕閣の急先鋒となったのが斉昭です。とにかく斉昭は何らかの政策を打ち出し、臣民を安心させる必要があるのです。そして上記のような政策を発表したのです。
*
さて、ここからが石岡市における浅山大成流についてです。この浅山大成流という流儀を調べてみると、猿橋東太郎光徳、慶応二年水戸に生まれた。浅山一傳古流・竹内流・大成流・卜伝流・為我流・戸塚楊心流の合作、と武芸流派大事典にはあります。
しかし、この記述は入手した資料に誤りがあったらしく、猿橋東太郎は浅山一傳古流を学んだ人で、他の柔術流儀は若干の修行をしたり、交流があった道場だったようです。これらの逸話は水戸藩の大成流伝説と合わさって色々な話が作られたようです。
明治三十六年の記録では猿橋東太郎は高崎市体育奨励会々長という肩書でした。同会幹事に門人の大谷彦三・雨宮長嘉・小林豊吉郎・吉田亀之助・新井新吉の名前があります。この高崎市体育奨励会の活動については詳細が不明です。
石岡市では眞蔭流柔術宮田要之助と組んで浅山大成流として併傳しています。宮田要之助は石岡町尚武館教授となっていて、この道場は停車場内にあったようです。二人の門人は下記の如く。
山本重太郎
高木愛次郎
櫻井萬之助
根本安太郎
青木 梅吉
眞蔭流柔術は現在でも埼玉などに現存しているのですが、どうも浅山大成流(浅山一傳古流)の方は絶流した可能性大です。石岡市に神道無念流を探しに行った時に、柔術についての噂は聞かなかったですね。もう少し時間があれば、探せたのかもしれませんが。
先に書いた猿橋東太郎の門人名に誤りがありましたので、訂正してお詫びいたします。
誤 大竹實
正 植竹實
です。
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Vol.16
茨城県の県庁がある水戸市。江戸時代の水戸藩が置かれた場所ですね。この近辺に常陸国独特の柔術が生まれることになります。
茨城県発祥の武術といえば、有名なのは鹿島新当流。そして水戸周辺にあった無比流杖術と為我流和術、そして三和無敵流。このうち無比流杖術と為我流和術がのこっている。三和無敵流に関しては免許者はいないと思われる。一般的に言う目録の人は少し前まで存命であったので、まだ可能性はあるかもしれない。
現在、この地で行われている為我流は茨城北部の大子町に
伝わった系統だ。羽石彦三師範―羽石竹松師範―羽石彦哉師範―羽石勝先生と伝わって現存したことがわかった。
水戸鍛錬会の門人の一人が偶然知り合うまではあきらめていたのですが、実際には細々とであったものの流儀は続いていたのだか、世の中はわからないものだ。
周辺の調査等、全て水戸鍛錬会の功績です。私の手には何も残らないが仕方がないね。次は西茨城から栃木県に向かう予定です。
Vol.17
茨城西部に行く前に、水戸市から北西に位置する城里町(しろさとまち、地図の緑部分)。まだまだ未調査の部分が多いですね。城里町は旧桂村、七会村、常北町が合併したのであるが、ここには為我流と浅山一傳古流が伝わっていました。
特に旧桂村の南東部に位置する圷村(あくつむら)の廣木辰之助は浅山一傳古流の指南免許で、圷村の村長を務めたひとです。この家には浅山一傳古流の槍の伝書があったとのことです(槍留の伝書の可能性あり)。武術家が村長や村議員を務めることが多かったので、そういった資料を検索するのも方法の一つです。
この圷村で昭和40年くらいまで浅山一傳古流が残っていたそそうですが、現在では消滅した思われます。しかし希望を全て捨て去るのは禁物かもしれませんね。
この圷村は北辰一刀流が、盛んだったようで門人がかなりいました。柔術より一人稽古がしやすい剣術の方が残りやすいのですが、まだ未調査の為に学んだ人が存命なのか、資料がどのくらいあるのか不明です。
廣木辰之助の浅山一傳古流は旧桂村の北部に位置する澤山村(沢山村)にも広がっていました。実にもったいない話です。地元に根付いた地方文化の一つが消えてしまうのですから・・・・。まあ武道では生活できませんから我々が批判はすべきではない。当時の現状を知らず勝手な批判はすべきではありませんので。
水戸市から北にある常陸太田市、この中心部の旧山田村は故小澤一郎師範(水戸東武館)門下生が非常に多かった地域だったようでかなりの人数がいたようです。この辺も未調査なので剣術流儀(北辰一刀流)関連の研究者すべきことは多いですよ。ボーっとしてる時間などありませんね。
笠間市と合併した友部町、現在の笠間市友部駅から西に一駅ゆくと宍戸という駅が有ります。ここは村上義治の伝えた笠間藩示現流が隆盛した土地です。昭和60年くらいまで立木打ちをしていたらしいのですが、今は伝わってはいないようです。ここも未調査の地域ではあります。
このまま茨城県西部に行く予定でしたが、長くなったので次回ということで。
Vol.18
武術史を志して苦労することに、伝書の崩し字を読まなくてはならないこと。読める人が近くにいれば、それでも良いのだが、昨今近所の老人でも読める人が少なくなった。
自分も独学だったので少々苦労はしました。そこで、少しでも助けになればということで学習のヒントを。
どうせなら伝書だけでなく、色々なものを読めれば楽しくもある。物事は何でも易しいものから難しいものへと進んだ方がベスト。
まず左の写真『御伽草子』。原本は崩し字だけど近代の文字に変えているので読みやすく、しかも旧字の口語訳なので崩し字風にみえる。右は『淡路国名所図繪』の影印本。名所図繪は崩し方が安定しているうえにフリガナがふってあるので読みやすい。図書館で借りればコピー代だけで金銭もかからない。物によっては口語訳にされたものもある。
何事も勉強ですよ。
Vol.19
茨城県西部編
茨城県全図の青い部分。以前に結城市などについて若干の記述をしましたが、ここでもう少し見てみましょう。
まず明治三十年代の茨城県に伝えられてた剣術で門下生が多いものは、北辰一刀流、鏡心明智流、直心影流、神道無念流といった流儀。鹿島新当流のおひざ元である鹿島町(現、鹿嶋市)でも新興の積川一刀流や直心影流の勢力が強い。
どうやら試合稽古(竹刀稽古、撃剣)をする流儀が主流になっていたとみて良いだろう。特徴として南部が直心影流が多く、北部は北辰一刀流が多い。
北辰一刀流は幕末に水戸藩の御流儀になり根付いたことが大きいだろう。一方、直心影流は茨城県の西部・南部・東部といった地域に勢力を伸ばし、成田周辺でも北辰一刀流を圧倒している。
直心影流が多い東部地区では潮来町(現、潮来市)のみが、北辰一刀流一色になっている。これは潮来町が江戸時代に水戸藩領であったことが原因ではないかと思われる。隣村の延方村(現、潮来市内)など逆に直心影流しか見当たらないほどだ。
北相馬郡の北文間村(現、竜ケ崎市内)、六郷村・稲戸井村(現、取手市内)は一刀流と荒木念流の勢力が強い(茨城全図の青と黄色の境で、最も下)。
この荒木念流は米元忠次が伝えた流儀で、米元はこの時期は千葉県木下町(現、印西市内)に住んでいた。
剣術流派は旧藩の流儀が、その地域に根付いていて水戸だと水府流・北辰一刀流・神道無念流、笠間だと示現流が勢力下に置いている。
その中で鏡心明智流は広まり方はバラバラで、鹿島町(現、鹿嶋市内・茨城全図黄右)と猿島郡(茨城全図・青左下)にまとまった勢力を伸ばしたのが目立つくらいであった。
次回は栃木県編です。
Vol.20
栃木県編
栃木県には聞いた限りでは古武道は現存していないというのが現状のようだ。宇都宮は直心影流が多く伝わり、振武館、松尾館といった道場が有った。信心流という剣術がつたわっていたが、皆目見当がつかない。武芸流派大事典でも上州に伝わったあるのみでそれ以上の記述はありませんね。
栃木県に伝わったものに直心武蔵流がある。鳥居岩男・山口金三郎の系統が明治には広まりを見せたが現在は聞くことも無い。
上泉伊勢守の門人野中新蔵が流祖となっている新神陰一円流があった。末流は一円流、素面流とも呼ばれた。この流儀は、野中勘左衛門の死去により絶流しそうになり、高弟の荒川丸内が皆伝を伝授されていて野中權内に伝えた。明治の頃である。この流儀もほとんど聞くことも無く、流儀の伝承が明治期に絶傳まじかであったと思われる。系統も野中權内以外のものが、ほとんど無かったように思われる。
天神眞楊流がいくつか入ったのだが、戦後(おそらく昭和25年)に古老が演武を行ったが門人は誰も来なかった。息子は完全に講道館柔道になっていたので絶傳となった。実に残念なことではないでしょうか。おそらく最後の希望をもっての演武だったのではないでしょうか。
この系統は磯家から伝書をもらっている。柔道の源流の一つである流儀を、柔道と併傳できなかったのであろうかとおもいますね。批判しても仕方がない事ですが・・・・。それと伝書が少し変わっていたことを覚えています。
栃木県に伝わった気楽流は山中栄吉の伝系がほとんどです。かなりの広まりを見せたのですが、残念ながら一系も残らなかったようです。
剣術は聖徳太子流・甲源一刀流(蛭川一の傳)・神道無念流が栃木県に入りましたが、命脈を保つことはできなかったようです。
栃木県の惨状は茨城県の比ではありません。正直、目の前が真っ暗になりましたからね。
しかし、かすかな光明が有るとしたら日光です。知り合いが日光東照宮を守るために伝えた流儀のメールをくれたことがあります。正直、信ずることはできなかったですね。自分だけがとか、自分の系統だけがとか、密か伝わった武術と聞いたら疑って見た方がよいでしょうね。
その人いわく栃木県の武術を調べている時に散髪屋の親父が話してくれたそうです。メールを送信した彼も、私も正直「本当かどうか疑わしい」という状況でした。後で調べてみます、とメールをくれた後は連絡が途絶えましたね。秘密を知ってはいけなかったのでしょうか・・・・・・。まあ、それは冗談です。
可能性があるとすれば、日光東照宮の神官に神道無念流の戸賀崎熊太郎の門人がいました。また日光町(現、日光市)には聖徳太子流が入った形跡はあります。このどちらかだろうと思われます。おそらく、それに尾ひれがついて伝説となったのではと思います。
栃木県はこれだけです。若干詳細に調べたものもありますが、内容はあまり変わりません。むしろ何か知っていたら教えていただきたいくらいです。