兼相流の謎と真実 

2015年01月20日更新  2015年06月23日更新


兼相流の真実と謎 改
 自分の研究(前回掲載『近世武術から近代武術への架け橋 兼相流編』)の正しさと清水傳の正当性を立証すべく、再度調査をすることにしたが真実は思わぬ結果となり新たな謎もでてきた。かつて柳田国男は自著の『昔話と文学』の中で昔話(言い伝え、伝聞)の採集について下記のように言っている。少々長いが引用したい。

「採集という事業は、それ自身がある興味をもっておりますが、通例は数を貪り、また人の知らない珍しいものをという欲が伴いまして、時々はうそ話にだまされ、またはわけもない笑い話に執着したりします。これにはかねて説いておりますように、何のために昔話を集めるのか、集めてそれをどういう目途に、利用しようとすぬのかを、あきらかにしてかかる必要を感じずにはおられません、」

 と記述している。武術史の伝聞もまた同様であろう。ここでは前回のお詫び方々、その一部分でありますが改めて記述していおきたい。

***************************
兼相の勝倉時代から上京、婚姻、死去まで
 武石兼相の家柄は元武士(正しくは武士格郷士)、ただし幕末から明治には農民であった。兼相の祖父にあたる人は戦で戦死、家を継ぐはずだった長男も戦死。幕軍についたことで武石家の名誉は著しく低下して農民になってしまった。家長および家督を継ぐべき長男が戦死したことで家の存続も危うい状態であった。

 養子に迎えられた兼吉(兼相の父)は家督を相続したのが九歳。土地の切り売りをするなど家計は非常に苦しかったことはいうまでも無かった。

 兼吉が「はる」と所帯をもったのが十五歳の時、早い結婚は農家の人手が確保するためであった。

 兼吉・はる夫妻は名誉回復と売ってしまった土地を買い戻すため非常な努力をした。

 明治十年に長男武石兼太郎(兼相)生まれる。

 明治二十五年に兼吉・はる夫妻の粉骨砕身の努力で名誉回復がされ旧武士へと戻ることができた。ただ生活の苦しさは変わらなかった。

 明治三十年に「家督は三男秀之介に譲る」と置手紙をして長男兼太郎が突然家出。理由は農業を嫌い東京で就職する、というものだった。兼太郎は知り合いを頼って上京。明治37年に三越本店に入社。明治40年に「打越せい」と婚姻。二男二女をさずかる(長男は生まれて直ぐ死亡)。

 妻せい病死(大正4年)、次男・長女を郷里の実家に預け、次女は亡き妻の実家へ養子縁組をする。

 大正8年に中村能婦(のぶ)と再婚、次男と長女を呼び戻し4人で生活を始める。能婦は兼相の武術助手を務めている。

 昭和8年に長女・次男と相次いで病死、次女が打越家と協議離婚をして養子縁組解消。兼相にとっては精神的にきつい時期であった。

 昭和18年、武石謙太郎兼相病死。病名は急性肺炎での急死であった。同年、次女が家督を相続。終戦間際まで東京にいた。
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伝聞の誤り1、「兼相先生は郷里で脇差をさしていた」?
脇差の件は早坂氏の伝聞だが、前出のように当時は家が離散する可能性がある中で、義理母・兼吉夫妻がもがき苦しみながらも名誉回復をしていった時代であった。脇差などさしている余裕はなかった。これは早坂氏がつたえる兼相流に居合がないために言ったことである(後に清水誓一郎氏の伝書が見つかってから無比流居合が五本残っていたとか、十数本あるとか言ってきたがこれは兼清流の抜刀・据物切であろう)。

伝聞の誤り2、武石兼相は無比流・為我流・緒流を郷里で学んだ?
 当時も江戸時代と同じく農閑期に修行をするだけで多くの武術を修行することは不可能。ましてや農業を嫌い東京で立身出世を夢みていた兼太郎青年にとって勝倉生活の終盤は修行に身が入らなかっただろう。突然の上京は両親にとって寝耳に水であって、再三再四戻るようにとの手紙を出している。上京は郷里の武術師範へも伝えてないのはあきらか。

伝聞の誤り3、武石兼相は武術家として上京した?
 三越本社ができたのが明治37年。就職は少し前として生活が徐々によくなり結婚ができた。兼相が職業武術家ではなかったことは明白で、明治37年に大倉直行(大倉傳浅山一傳流)入門して本格的な武術稽古に入ったと見るほうが納得できる。明治37年の出会いは偶然ではないだろう。

伝聞の誤り4、武石兼相は結核で死去
 これを理由に早坂氏は「晩年の2〜3年は武術指導はしていない。松本貢氏は教わっていない」といっていたが、記録は急性肺炎での急死。故松本貢氏が雑誌「和儀 第二号」に「人巻を授かる予定だったが先生が急死してもらえなかった」という自己申告にも合致する。兼相死去前に松本貢氏は人巻を師から見せてもらっていて「薬法だった」とある。内容は薬法と殺活術で柔術における奥傳であった。殺活傳には為我流や浅山一傳流の影響を見ることができない。むしろ天神真楊流柔術の影響が強く出ている。
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弟・秀之介の生涯と勝倉傳為我流
 武石兼吉の三男として生まれる。幼少の頃から体弱く、農業には向かないので官史を目指していたが、長男兼太郎の突然の上京で家督をつぐことになる。

 大正2年4月に小川さく(20歳)と結婚。妻さくは体格もよく農業では男仕事もこなしたという。身体が弱かった秀之介であったが武術の稽古をすることで心身を鍛えることを目指している。心ならずも家督をつぐことになったとはいえ当主として強い自覚を持っていたと思われる。秀之介がある程度武術に専念できたのは、妻さくの働きと支えがあったからと見るべきだろう。

 昭和4年の茨城県における天覧試合の「棒術無比流形 武石秀亡助」という記録がある。これは武石秀之介を誤記したもので、彼がこの時点で武術家として茨城県を代表するまでになっていたようだ。

 秀之助は為我流柔術も学んでいることがわかった。彼の師は武石栄蔵で系譜は、

・・・・・武石茂助−武石栄蔵−武石秀之介(兼相の弟)

勝倉系為我流柔術系譜は、

・・・・・武石茂助−武石栄蔵−武石與兵衛−武石喜代壽−武石末男

 となっている。
 武石與兵衛は明治38年に武石栄蔵が掲げた為我流奉納額(勝倉神社内)には平手(他流の初傳)として最後尾に名前がある。年齢的には二十一〜二十二歳頃であろうか。昭和10年に建立された勝武館の「武徳碑」では武石栄蔵を筆頭に以下四名の免許者の名が刻まれていて四番目に武石与兵衛の名前がある。道場主は武石與兵衛だったが自分の師、三人の古参免許者が先にきているのは武術家としての常識があったためだろう。

 この碑に「平免許 武石秀之介」の名がある。平免許は他流の準免許で、指導をすることができるが免許を出すことはできない。尚、秀之助のご子息均氏も平手(実際に前年に判消伝授)として名が刻まれている。また武石与兵衛の後を継いだ武石喜代壽の名前もある。

 武石茂助の系統に無比流が入ったのは武石秀之助の門人石井某が武石喜代壽の次代武石末男師範の時が始めてであった。
 勝倉系無比流棒術の系譜は、

・・・・・武石新三郎−武石秀之介(兼相の弟)−石井某−武石末男
 
*後の調査で分かったのだが武石秀之介氏は為我流の免許皆伝者となっていることが分かった(與兵衛先生発行伝書による)。

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伝聞の誤り5、武石茂助の無比流棒術はあったのか?
 武石茂助の系統にあったという無比流相伝家伝説は崩れた。この系統に無比流が入ったのは戦後でそれまでは為我流のみの伝承であった。兼相の弟秀之助氏は無比流・為我流の両方を学ぶことが出来たが、当時の状況から武石兼相が両方を全て学べた可能性は低い。早坂氏の「武石茂助先生系(勝倉系為我流)に遠慮して武石兼相は為我流を名乗らなかった。逆に武石茂助先生も無比流相伝家を名乗らなかった」という説は当然崩れた。

伝聞の誤り7、無比流と為我流は合わせて一流儀?
 これは我々研究者の誤り。むしろこの二つの流儀は別々に伝わっていったようだ。少なくとも勝倉地区では武石秀之助の代に二つが同時に稽古された可能性が高い。平磯系は大内藤次郎からで、むしろ特殊な伝承形態であったといえる。
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兼相流は如何に伝わったか
 武石兼相の伝えた武術を大分類すると、無比流棒杖術、無比流居合、兼相流柔術、諸術となる。ここで会員の皆さんは兼相流は武石兼相が伝えた武術の総称ではないということを念頭に置いていただきたい。あくまで無比流棒杖術、無比流居合、兼相流柔術という三流儀を伝えていたと理解しないと見解を誤ってしまう。

 現在残っている武石兼相の系統は二つ。清水傳と松本傳で各道場の流を見てみよう。

清水傳系譜
 武石兼相−清水謙一郎−望月庄一郎−前原清三
 
 清水謙一郎は大正時代から昭和初期の門人である。無比流棒杖・無比流居合等のほかに兼相流柔術天地人の三巻を授かっている。
 
 清水謙一郎は何時の頃か天巻を兼相流表、地巻を兼相流裏と変更し兼相流逆手術として伝える。望月庄一郎はこの兼相流を学んだが望月・前原の代で八光流を中心に技法を組んで、初段から五段の通信教育を始める。望月氏は出版業であったので必然の法則であった。

 清水・望月の演武写真をとったのは前原清三師範である(異説あり)。

 前原師範は清水傳の逆手術表裏は学ばず望月傳を学んだ。兼相流天地人などの巻物は所持していない。

 前原師範は兼清(けんせい)流を創始する。「増補大改訂 武芸流派大辞典(昭和53年発行)」には、「かねひら流」として登録されている。門人もいたので、この時点で兼清流はかなり完成されていた流儀とみることができる。

 さらに前原道場の記録データが手元にある「大日本武徳会 武徳(1987年)」という雑誌だ。全日本兼清流連盟で登録されており、兼清流古武道として前原兼嘉(清三)範士とともに早坂義文六段(号、兼義。「武徳会範士」にもなっている)。

 この雑誌には沖縄支部ができたことが記述されて支部長には金硬流の又吉眞豊宗家が就任されたことが掲載されている。金硬流の東京事務局は全日本兼清流連盟本部内となっている。

 また参加道場の記録に神道心月流古武道総本部が掲載されていて、これも全日本兼清流連盟が兼ねている。この流儀も兼清流に取り込まれて存続している。前原道場の武器術はこの兼清流に取り込まれた神道心月流がメインだといわれている。この流儀の万力鎖(兼清流分銅鎖という)では大きな両分銅がついた万力鎖を使用することが知られている。分銅の形式は天秤計に使われるような形で下が平になっている。

 尚、この大日本武徳会は戦前に有った大日本武徳会とは関係無く1987年に新興された団体である。

 清水謙一郎は「兼相流逆手術表裏」の詳細な覚書を残していて所持している人は数人いる。この系統では清水傳の兼相流は失傳したことが分かっているので、覚書から技法を再現して清水傳の継承者が現れる可能性が高い。復元は復元である。ゼロからの復元を流祖から伝わる流儀とすべきではない。それは流祖への侮辱行為である。

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伝聞の疑問8、清水謙一郎は兼相流の正統継承者か?
 「増補大改訂 武芸流派大辞典」の兼相流の項目は清水春生氏の報告とあって、いわば清水家に関係する人の申告であった。これだけで正しい正統継承とするには難しい。武石兼相・清水謙一郎連名の伝書がある、と聞いていたので大きな期待をしたのだが、これは平免許者(この場合は清水氏)が指導したときに免許者(この場合は兼相師範)が出した伝書であった。さらに流儀を継承したのであれば、「何故、天地人の教えを表裏に変えたのか?」等の疑問が起る。現状から正統流儀継承者とするには弱い。

 大日本武徳会の会誌「武徳」の時点でも兼相流の登録・演武が無い。兼相流の伝書(清水、望月発行)を前原師範は所持していない。早坂氏の所持している「武石兼相発行、清水謙一郎宛」の伝書も前原道場に代々伝わったものではなく、他の人物から譲られたものであった。このように継承が不確かなものは後に宗家や継承者という者がでやすい。中には伝書を偽造するものもあるだろう。

 尚、この訂正文の前に前原師範の継承者を早坂氏としたが、前原師範のご子息が流儀を継ぐことになったそうだ。前原傳の兼清流は厳密な意味での清水傳の兼相流ではない。次の代表者も早坂氏ではない。当然、早坂氏が清水傳兼相流の宗家を名乗る資格は無い。

伝聞の疑問9、兼相流と為我流の併傳
 兼相流と為我流が併傳されたことが無いことがわかった。勝倉時代に兼相が教えを受けた記録が無い。仮に学んだとしても年月的にみて学んだ為我流の技術は手解き程度だったであろう。

 東京時代に学んだ可能性はあるが、判消までいった記録が無い。なにより兼相流柔術に為我流の痕跡が無く大倉傳浅山一傳流に近い。

 早坂道場に武石兼相師範から伝わる勝倉傳為我流が残っているというので大きな期待をもって見学に行った。しかし、そこで見たものは為我流とはいえない技法であった。今風にいうなら「為我流ではない別の何か・・・」であった。構え、技術など勝新流の劣化版であり、歩法は柳生心眼流のように膝を上げるものであった。

 これは覚書を誤って復元したとしか思えない不完全極まりないものであった。ゼロからの復元流儀は研究の価値はあるが、古武道としての歴史的・文化的価値は無い。早坂道場の武石兼相傳の武術といわれているのは兼清流と復元した技法だった。早坂氏は兼清流の相傳者であって、兼相流・為我流の継承者でないのは明らか。

 私(著者)の期待は脆くも砕け散った。流祖の武石兼相師範がこれを見たらどう思うだろうか? このことが再度調査をしなくてはならないという思いにかられ、また清水傳に傾いていた研究の針が中心線に戻ったのである。客観的な目で固定概念を捨てて物事を観る、この基本に戻ったのである。

 勝倉の為我流は武石與兵衛先生の系統以外ない。武石與兵衛先生も昭和二十七年まで武道禁止令がでていて道場は閉められていた(昭和二十八年に禁止令が解除されている)。

 武石與兵衛先生は門人に免許皆伝を出しているが、戦争の時代(昭和14年〜昭和20年)であったので免許者は門下生が無く系統は続いていない。

 唯一、系統の後継であった武石末男先生も以前は訪ねてきた人に術の解説など快くしていたが正式な門人は今はいない。解説は解説であって指導ではない。末男先生から教えを受けた人は何十年も前で、教えを受けた人は一族・一門で全て把握していた。本人・ご兄弟の話では、ここ数十年間で教えを受けた人はいないとのことであった。

 残念ではあったが勝倉系は完全に失傳したといってよいだろう。この系統が今後つながることはない。
  
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 次に松本傳。
 伝聞の4にあるように兼相流柔術の免許である人巻を授かることができなかった。それでも技術を記した天地二巻は伝わっている。また無比流棒杖術・無比流居合・浅山一傳流諸術が伝わっている。

 故松本貢氏は戦後道場を開くときに流儀名を松道流とした。武石兼相が伝えた武術に総称がなかったためであった。これは武道家の良識(兼相流柔術の免許者ではない事)に従ったこともあるだろう(異説あり)。

 無比流居合が兼相の傳にはある。松本傳には残っているが、清水謙一郎傳は時代ととも消えている。この無比流居合の内容は茨城に伝わった新田宮流であった。当初、懐疑的であったが新田宮流と無比流居合の比較検証の連絡が入った。周辺の記録をさぐると流祖の和田平助が晩年に名乗った無形流居合が幕末から明治期に為我流系に伝わっている。新田宮流の多くの系統は失傳の憂き目に会ったがその末流が武石兼相までつながったようである。

清水傳、松本傳の技術沿革
清水傳
武石兼相(無比流棒、無比流居合、兼相流柔術、一傳流諸術)−清水傳(武石傳の天地巻を兼相流表裏逆手術と変更)−望月・前原傳(八光流を中心とした兼相流逆手術へと変更)−早坂氏傳(清水傳を復元)

松本傳
武石兼相(無比流棒、無比流居合、兼相流柔術、一傳流諸術)−松本貢(兼相全傳と大倉系を合わせ、松道流とする)−松本保男(無比流武術と改める)−以下は松道流もしくは無比流武術。

**
伝聞の疑問10、天地人三巻
 松本傳では現在人巻を含む三巻を伝授している。これは大倉傳の坂井宇一郎氏との関係から出来上がったと思われる。これについてはさらなる調査をする予定である。

伝聞の疑問11、無形流(新田宮流)はどこから?
 先に検証したように勝倉時代は武術修行に集中することはできなかっただろう。家も貧しく余裕ができたのは弟・秀之介先生が家督を継いでからであることは明白だからだ。と、すれば余裕ができた三越本店入社から再婚する時期に東京で修行をしたであろうと想像できる。さらに道場を開設してからは武道関連の人たちとの関係が深くなる。東京時代の修行と考えたほうがつじつまが合う。

 無形流居合を、何故、無比流居合と改めたのかの謎は残った。今後、さらなる検証をこころみなくてはならない。
 武石兼相が長く学んだのは無比流だった。現段階では、それ以外は断片的で東京時代に学んだとみるべきだろう。
**

兼相流柔術の内容
 清水傳の兼相流表裏逆手術(清水傳兼相流とする)の技法目録と大倉傳浅山一傳流の技法目録を並べて見た。松本傳の天地巻も兼相傳と同じである。 
■は文字違いもしくは異なった技法名、■は順番の違い、斜め■は異なる技法名。

清水傳兼相流表裏
大倉傳浅山一傳流
表形
上段之位
引落 抱込 小手返 入違 猿投 両手捕
両胸捕 霞返 折木 打落 行違 襟引

中段之位
引立 丸身  逆手投 捩返 一文字 逆胸捕 
襟絞 前肩捕 釣鐘  打込抱 帰投 三脈取

下段之位
前双手 片手締 逆虎返 打込押 露返 後双手 
横引  腰返  関節投 翼締  首投 後肩捕

押込 
足抱  腕挫  三咽喉 膝裏押 関節押 御前捕
逆折押 立膝折 足受押 肋骨押 気管押 全身押

裏形
上段之位 
打込 前落  腕骨抜 払倒 巌石落 咽喉落
入身 逆背負 双手投 閂返 縛捕  隅攻

中段之位 
霞捕 霞落 双手返 双手捕 浅間返 浅間落
猿滑 猿落 駒返 駒落 獅子返 獅子落

下段之位 
岩砕 岩落 錣返 錣落 後浅間 逆身落
芝落 芝払 矢筈落 臑砕 添捕 燕返

居捕 
星落 星返 天狗落 天狗返 獅子附 獅子砕
白狐落 忍返 忍落 小太刀返 綾落 片手翼
天巻
上段
引落、抱込、小手返、入違、猿手投、両手取
霞返、折木、両胸取、打落、行違、襟引

中段
引立 丸身  逆手投 捩返 一文字 逆胸捕 
襟絞 前肩捕 釣鐘  打込抱 帰投 三脈取

下段
前双手、片手〆、逆寅返、打込押、露返、後双手
横引落、腰返、関節投、翼〆、首投、後肩取

押込 
足抱  腕挫 三咽喉 膝裏押 関節押 御前捕
逆折押 立膝折 足受押 肋骨押 気管押 全身押

地巻
上段 
打込 前落  腕骨投 払倒 岩石落 咽喉落
入身 逆背負 双手投 閂返 捕縛 隅攻

中段 
霞捕 霞落 双手返 双手捕 浅間返 浅間落  
猿滑 猿落 駒返 駒落 獅子返 獅子落

下段之位 
岩砕 岩落 錣返 錣落 後浅間 逆身落
芝落 芝払 矢筈落 臑砕 添捕 燕返

居捕
星落、星返、獅子付、獅子砕、天狗落、天狗返
片手翼、燕返

 上記を比べたいただくと一目瞭然で、確かに居捕の術数が兼相流は増えていて独創性はあるが、ほぼ同一流儀であることがわかる。 技法の名称、技法の入り方の異なりなどは極々小さいことであり、大局な見地からは差別化する要因にはならない。

**
伝聞の疑問13、兼相流と大倉傳浅山一傳流
 武石兼相が大倉直行の門に入ったのが明治37年、生活に余裕がでてきた時期と合致する。
 武石兼相が薙刀で大倉直行の剣に負けて入門したという伝聞が大倉傳にある。しかし、兼相が特異としたのは無比流棒術である。得意の棒を捨てて薙刀で勝負をするだろうか? ここまでの検証で兼相が郷里では道場持ちでもなく、奥傳まで修行した形跡は無いとはいえ、おそらく稽古のデモンストレーションで行ったものだろう。
 逆に武石兼相側の武術が大倉傳に影響を与えたものとしては、大倉傳の棒術が無比流棒術であるという伝聞をもらった。これについても検証しなくてはならないだろう。

伝聞の疑問14、兼相と大倉門人の記念写真
 晩年の武石兼相を中心に大倉直行の門人達の記念写真がある。この撮影された場所を大倉直行の道場とする伝聞がある。しかし、この写真に写っている後ろの家紋は武石家の家紋である。つまり撮影場所は武石兼相の道場の可能性が高い。

伝聞の疑問15、大倉傳浅山一傳流は故上野貴の創作
 これも早坂氏の伝聞で前回は採用しなかったものの一つだ。

 上野貴は明治三十一年の生まれである。大倉直行が世に出たのは明治三十七年。六歳の小僧が作ったものを大人が採用するだろうか。しかも、上野貴は大倉の曾孫弟子であることや、大倉の直門人からでた目録等(兼相流を含む)から上野貴の創作でないことは明らか。

 この伝聞は大倉傳との差別化を計ろうとして作ったものだろう。

伝聞の疑問16、現在の兼相流は正しいか?
 早坂氏は前原傳兼相流初段〜五段の内、四段・五段に清水傳の兼相流表裏が入っているといっているがこれは違っている。何人かの人が前原道場で兼相流表裏を学びたがったが、前原師範は「知らない」と答えているからだ。

 郷里を20歳で後にし、苦難の末に立身出世した武石兼太郎兼相の残した武術文化を後世の人間が台無ししてはならない。人として最低限のモラルは守るべきであろう。

まとめ
 清水傳は代が重なるごとに本来の無比流棒・無比流居合・兼相流柔術を失傳・変化させて兼清流へと進化した。一方、松本傳は無比流棒・無比流居合を伝えながら、大倉傳浅山一傳流を学ぶことで兼相流柔術の欠けた部分を補う進化を遂げた。
**
 早坂氏の伝える兼相流・為我流の正当性と前回の兼相流研究の正当性を立証しようとした追加研究であったが真逆の結果がでた。
 前回の検証文の誤りは、私(著者)自身の不徳のいたすところであり、歴史研究の基本である既成概念に囚われない伝聞の分析に欠けていたと恥じるばかりである。

 上記を比べたいただくと一目瞭然で、確かに居捕の術数が兼相流は増えていて独創性はあるが、ほぼ同一流儀であることがわかる。 技法の名称、技法の入り方の異なりなどは極々小さいことであり、大局な見地からは差別化する要因にはならない。

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伝聞の疑問13、兼相流と大倉傳浅山一傳流
 武石兼相が大倉直行の門に入ったのが明治37年、生活に余裕がでてきた時期と合致する。
 武石兼相が薙刀で大倉直行の剣に負けて入門したという伝聞が大倉傳にある。しかし、兼相が特異としたのは無比流棒術である。得意の棒を捨てて薙刀で勝負をするだろうか? ここまでの検証で兼相が郷里では道場持ちでもなく、奥傳まで修行した形跡は無いとはいえ、おそらく稽古のデモンストレーションで行ったものだろう。
 逆に武石兼相側の武術が大倉傳に影響を与えたものとしては、大倉傳の棒術が無比流棒術であるという伝聞をもらった。これについても検証しなくてはならないだろう。

伝聞の疑問14、兼相と大倉門人の記念写真
 晩年の武石兼相を中心に大倉直行の門人達の記念写真がある。この撮影された場所を大倉直行の道場とする伝聞がある。しかし、この写真に写っている後ろの家紋は武石家の家紋である。つまり撮影場所は武石兼相の道場の可能性が高い。

伝聞の疑問15、大倉傳浅山一傳流は故上野貴の創作
 これも早坂氏の伝聞で前回は採用しなかったものの一つだ。

 上野貴は明治三十一年の生まれである。大倉直行が世に出たのは明治三十七年。六歳の小僧が作ったものを大人が採用するだろうか。しかも、上野貴は大倉の曾孫弟子であることや、大倉の直門人からでた目録等(兼相流を含む)から上野貴の創作でないことは明らか。

 この伝聞は大倉傳との差別化を計ろうとして作ったものだろう。

伝聞の疑問16、現在の兼相流は正しいか?
 早坂氏は前原傳兼相流初段〜五段の内、四段・五段に清水傳の兼相流表裏が入っているといっているがこれは違っている。何人かの人が前原道場で兼相流表裏を学びたがったが、前原師範は「知らない」と答えているからだ。

 郷里を20歳で後にし、苦難の末に立身出世した武石兼太郎兼相の残した武術文化を後世の人間が台無ししてはならない。人として最低限のモラルは守るべきであろう。

まとめ
 清水傳は代が重なるごとに本来の無比流棒・無比流居合・兼相流柔術を失傳・変化させて兼清流へと進化した。一方、松本傳は無比流棒・無比流居合を伝えながら、大倉傳浅山一傳流を学ぶことで兼相流柔術の欠けた部分を補う進化を遂げた。
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 早坂氏の伝える兼相流・為我流の正当性と前回の兼相流研究の正当性を立証しようとした追加研究であったが真逆の結果がでた。
 前回の検証文の誤りは、私(著者)自身の不徳のいたすところであり、歴史研究の基本である既成概念に囚われない伝聞の分析に欠けていたと恥じるばかりである。

師範傳と武石兼相傳の序
 現在、武石兼相につながる師範を改め紹介しておきたい。

 木村師範の道場はホームページがあるので検索できる。在野の師範で小さいながらも道場をもっていて指導をしている。無比流武術として、兼相流柔術・無比流杖術・無比流居合・諸術を教傳している。数多くの技術を、よく整理しているので武道未経験が学ぶにも適しているだろう。筑波山神社武道奉納大会に参加した。

 大崎師範はご高齢なので直接指導は減ったが古参の高弟や関師範が月一回のペースで定期的に指導がされている。大崎師範の後継者の関師範が茨城で道場を開いている。ここでは浅山一傳流剣・居合や夢想神伝林崎重信流詰合、無比流居合、諸術等を学ぶことができる。雑誌『秘伝』の道場サイトで検索が可能だと思う。

 関師範は数多くの武術を学んでいて技術総数はかなりの数を越えると思うが、個別の流儀をよく整理して身体にインプットされている。ある意味で、天才だと思う。

 関師範と木村師範どちらの師範にも私個人は面識があるが、二人は面識はない。しかし、不思議なことに個々の能力として技術を上手く整理できているということでは二人に共通点がある。興味深いところである

 さらに松道流や円流として独立した人たちもいる。独自の発展をしていると思われるが、武石兼相の遺伝子という大きなくくりでは問題ないだろう。

 ちなみに門人間の派閥などは当サイトにとては預かり知らぬことである。門人間の派閥など歴史の検証にとっては意味をなすものではないからだ。

武石兼太郎兼相傳 序
 これらの写真は、『未知志留辺 第四号 武石兼相傳』に使用するために兼相翁の関係者(親族・親戚)から全てお借りしたものだ。『未知志留辺 第四号』には、貴重な写真を数多く載せた(今年12月に発送予定)。兼相傳武術道場につたわる話とは全く異なる兼相傳がそこにはあった。
  武石兼相の柔術(左)、武石兼相の一族(右)
 受け手を務めているのが武石兼相翁(相手は不
明)。家族写真は後列左が武石兼相翁、隣が兼相婦
人、その隣が妹さん。右端は兼相翁の弟(次男)、前
列、右のリボンをつけているのが兼相翁の娘さん。娘さん
は数年前に亡くなられたそうである。

この時代は武石一族が裕福になっていた。左の柔術形
は為我流には無い。大倉傳の技法に同じものがあるよ
うだが、技法の極めの部分らしく個別の名前は無いよう
だ。
 人間・武石兼相を描くためには武術に比重がかかるが、あくまで生活の一部でしかない。武石一族の写真を見て兼相傳武術を伝える人々はどう感じるだろうか? 

 非常に貴重なので、前回、削除した松本道場の写真を再び
掲載した。全ての門人が、武石兼相の武術遺伝子を継いだ
人々だから掲載は当たり前だと思う。

 前列左から二人目が松本師範。その右隣、紺の胴衣が大
崎師範。前列左が円流の正木師範。代数としては大崎・正
木両師範は武石兼太郎兼相翁の孫弟子にあたる。尚、前列
向って右端が松本保男師範。

 今から三十数年前の貴重な資料である。写真提供者は大
崎師範の後継者関師範。 

 木村師範から連絡があり、上の写真向って右端が松本保男
師範であることがわかった。「松本保男師範の修行年数に疑
問がある」という伝聞があったが、松本貢師範から長く教えを受
けていることが分かる。

今後の研究 2015年01月20日
 武石兼相の流儀研究としての今後のポイントは以下の二点になる。

1、大倉傳浅山一傳流の極初期、技法名が存在しなかったとの伝聞の検証。
2、大倉傳・清水傳・松本傳及び分離独立した系統の独自進化の検証。

 1よりも2に比重を置いた研究になると思う。各流儀・各系統が時代による影響をどのうように消化して進化を遂げていったか? そしてどのような未来図を描いているかを調査することが重要だ。

 現在は兼相流だけに重点を置いて研究を進めているわけではなく、むしろ山本流居合に興味をもって進めている。当初は言及する予定のなかった流儀であるが、現在伝わっている技法への違和感、近現代における伝承の曖昧さ、その他諸々について興味を覚えたからだ。

武石兼相傳 補足  2015年06月23日

 武石兼相が学んだ武術の詳細は資料そのものが無いので非常に分かりづらい。近代の人であるにも関わらず、何の流儀を何年学んだのかという資料が非常に少ない。伝聞のみに頼ることが難しいことはすでに記述した。そのため決定的な資料が発見されないうちは仮定とする以外にない。

 武石兼相は地元にいるときに演武会に出場した記録はあるが、今回、無比流の入門起請文の記録が見つかった。この記録には、明治二十六年(兼相十六歳)に入門し「武石兼相」をすでに名乗っていたこともわかった。武石兼相の茨城県における修業期間は4年ほどであることがわかる。資料そのものは武石新三郎家にあったものがコピーとして保存されていたものだ。武石新三郎師範の家は新築時に資料が散逸してしまっているので貴重な資料であることは間違いない。

 この資料以外に武石利三郎師範が小松崎兵庫業求師範(三反田・勝倉系)から明治二十二年に伝授された無比流兵杖免許の写真もいただいた。この武石利三郎の記録は地元には少ないが、小松崎の墓碑などには武石新三郎師範の隣に名があるなど高弟であったことだけはわかる。茨城県側に記録が少ないため、利三郎師範は別の土地に出た可能性が高い。

武石兼相師範(後列左から二番目)と門人一同
兼相流柔術を伝授する武石兼相(中央)

 今月7日に兼相師範の曾孫弟子にあたる関師範と水戸鍛錬会が、武石家(兼相の実家)にて子孫の方々の前で庭先をお借りして演武をしました。当日は兼相傳浅山一傳流武術、為我流和術(じゅうじゅつ)が披露された模様です。