新規サイト002のヘッダー
帆泊波ジャーナル
トップ
古書目録
武道コラム
蔵書伝書複写
新刊
武道コラム
関口流抜刀術
一木天流
トップ
武道コラム
古書目録
関口流抜刀術
第一回 初めに
私(著者)は当初、この肥後傳関口流抜刀術に対しては近世成立の流儀として否定的な見方をしていた。居合(抜刀術十一本)と介錯の作法を最も重視し、本家関口流が伝えた柔術・小具足といった分野を排除しているためだ。このようにな部分伝承流儀の理由は失傳によるものが多く、中には現代居合の技法を取り込んだ流儀名だけのものもあるからだ。事実、肥後傳にも現代居合の影響を受けている系統が多い。しかし、青木規矩男傳の戦前(おそらく最も古い技法)の系統を引く「亀谷−高木−宮嵜」系には現代居合の趣は無かった。良く言えば「朴訥、豪快」、悪く言えば「粗野、荒々しい」という印象であったからだ。
では、何故に肥後傳関口流抜刀術は技法を整理し、自ら持っていた多くの技法を捨て去ったのだろう(それも故意に)。それには関口弥六右衛門氏心(柔心)・氏業親子、渋川伴五郎義方の事跡に触れることから始めたい。
第一回 林崎甚助と関口弥六右衛門氏心、そして井澤十郎左衛門長秀
居合中興の祖と知られる林崎甚助重信が実在したことは高松勘兵衛信勝・東下野守平元治・田宮平兵衛重正・片山伯耆守久安・長野無楽斎・本間善左衛門高勝といった門人がいたことで確実ではあるが、その事跡の詳細が不明で言い伝えも後に作り出されたものがほとんどと言ってよい。
林崎甚助の逸話のほどんどが江戸時代に起こった仇討物の講談がその原点だったが、より指針となったものは明治二十年頃に当時の林崎居合神社の別當であった林多少氏の『林崎重信先生伝記』であった。この伝記の根拠となる部分を林氏は示していないためその信憑性が低い。
林崎流の居合を含む刀法と長巻術が後世になって分かれて伝わったことが資料に残っている。術の二分化は会津藩の相田橘右衛門が林崎神社を訪ねて近在の郷士から居合ではなく長巻術であったことでも理解できる。林崎甚助を祖とする居合は直門人がそれぞれ流儀名を名乗るのだが、その一系を関口弥六右衛門氏が学んだことによって関口流居合となった。
関口弥六右衛門氏心の居合修行の初めは、林崎甚助に入門した事からといわれている。関口氏心が十歳の時に入門したと考えれば、林崎甚助の最晩年に教えを受けることは可能であると仮説をたてることはできる(田宮一族の年代から割り出したものを自著『居合・抜刀術考』で考証した)。しかし、現実問題を考えれば長くても一年程度であったろうと思われる。
むしろ系譜では林崎の門人東下野守元治や田宮平兵衛重正の門人として関口柔心が書かれていることを考えれば、ほとんどの技術は神明夢想東流や田宮流から出たと考えるべきであろう。尚、『海録・第六巻』から孫引きされた『和言黔■外編』に関口弥六右衛門氏心柔心の師を清水一夢とする記述があることを付記しておきたい(■はネット環境では表記できない)。
関口流は柔術と居合を主とした綜合武術で、槍・剣・棒・縄・馬術まで包括している。これらの武技は流祖の関口弥六右衛門氏心一代で出来上がったものらしいのだが、極初期には理論・心法といった教傳大系は確立されていなかったと思われる。技法の体系化(特に伝書作成)に関与した人物として関口弥六右衛門氏心の甥にあたる関口弥左衛門頼宣が挙げられる(関口流槍術伝書・尾張藩傳関口流抜刀術伝書)。
この関口頼宣は尾張藩における関口流抜刀術の始祖で、伝書によっては関口氏成と記述されることが多い。また年齢的には流祖関口弥六右衛門氏心の三男関口弥太郎(居合の達人と伝わる)に関口流を教えていることから、二代関口氏業(氏心の長男)と同年齢かさらに年上と思われる。そのためか関口頼宣を流祖の関口弥六右衛門氏心や二代関口八郎左衛門氏業と混同して、その事跡が複雑に絡み合って伝わってしまっている場合が多い。
関口家と渋川伴五郎
肥後傳の関口流を語る前に関口家と渋川伴五郎義方の関係について知っておかなくてはならない。この関係についてはいくつか説がある。少々、込み入っているのであるがとりあえず書き出してみよう。
渋川義方は承応元年(一六五二)生まれ、宝永元年五月没、五十三歳。最初関口柔心に入門し四年(渋川義方十四歳)、柔心の実子八郎左衛門氏業に十年学んで延宝八年に関口流免許皆伝となり、一から三年後に許可を得て江戸に出た。一説に渋川義方が二十九歳の時に免許を得て、直ぐに和歌山城下に「道凝館」という道場を開いたともある。さらに又一説、伴五郎が二十四歳のときに江戸に出て門弟一千人とあって、当時江戸にいた菅谷某という柔術名人を破ってさらに有名になったとある(『翁草』)。
この伝聞の共通点は「渋川義方は関口親子から関口流を学んだ」「江戸に出た」ということだけで、関口・渋川の関係については分からない。師弟関係については、関口柔心が寛文十年(一六七〇)三月七日に七十四歳で病死しているので、渋川義方の入門は関口柔心の死去四年前、関口柔心の最晩年門人ということになる。渋川流四代渋川時英が記述した『武伯勤誌』には、関口流二代関口八郎左衛門氏業に入門した年齢を十六歳としていて、さらに江戸に出るときに「師弟義絶なりし故」とあって関口柔心との関係に溝があったことが記述されていることから、ほとんどの技法を二代目の関口氏業から学んだと考えることができる。渋川義方が関口柔心に実際に学んだのは一〜二年であった可能性がある。渋川義方と関口柔心との「義絶」について『南紀徳川史』の関口家代々に伝聞に因るとして、
「関口流は柔術の元祖にして、渋川流もこれよる出ず。初め渋川伴五郎、柔心の門に入り学びたるに、力量強く我意の術ありしより、流意に適せずとして柔心に破門せられ、後、渋川の一流を立てしに魯伯(八郎左衛門氏業)武者修行のとき出逢い、伴五郎勝負に負けたるより、ふたたび魯伯の門に入りしと言う」
渋川が入門した時、関口柔心は七十歳。徳川時代と現在を比べると今の八十歳くらいになるだろう。天才武術家であった関口柔心でも老いは隠せない。しかも四年後に病死であれば体調が万全であったとはいえない。当然ながら渋川に技術をどこまで示すことができたか疑問が残る。伝聞にあるように十六歳で関口八郎左衛門氏業に入門したとしたら師(柔心)を見限った何かがあったのか、あるいは師から離れたことが「義絶」の原因だったのだろうか。
渋川義方が紀州で関口氏業から免許皆伝を授かったのは二十九歳(これにも諸説あり)。柔心と「義絶」するほどの事があったとして、何故か柔心死去から十年間のほとんどを紀州で過ごしている。さらに渋川時英の伝聞では免許皆伝を得て江戸に出るとき柔心との縁を切ったように記述している。それまで周囲には訴えることも無く、心の底に隠して置かなければならなかった「何か」があったことになる。
次に関口八郎左衛門氏業と渋川義方との出逢いを渋川流開創後(江戸)とすることについても検証してみよう。
関口八郎左衛門氏業が諸国武者修行に出たのが承応三年、渋川義方が生まれて二年後である。延宝元年に紀州徳川家に帰参して三百石、実に関口柔心が死去して三年後であった(渋川義方、二十一歳)。関口氏業が江戸の芝浜松町に道場を開いたのは、この武者修行の間とみるのが妥当であろう。もし江戸で渋川義方が関口氏業と合ったとしたら、関口柔心との確執から関口氏業の帰参までの間に江戸に出て再入門した可能性が高い、だとすれば関口氏業の帰参と同時に紀州に戻ったのではないかとも考えられる。
渋川義方は十代で江戸に出て関口八郎左衛門に合い、ここで入門して八郎左衛門が郷里に帰参したときに紀州に戻り、免許皆伝を授かった後に再び江戸にでた可能性がある。なるほど、これならば幾つかの伝聞につながりがでてくる。
当然、二代目の関口八郎左衛門氏業への恩義があったであろうが、流祖の関口柔心との心の溝を埋めることはできなかっただろう。
肥後傳関口流抜刀術の沿革
肥後傳関口流抜刀術は、関口八郎左衛門実親の門人渋川伴五郎義方に関口流を学んだ井澤十郎左衛門長秀(号、蟠龍軒)が肥後を中心として広めた流儀を指す。この関口八郎左衛門実親は、門人の渋川伴五郎との関係をみると関口流二代の関口八郎左衛門氏業と同一人物とみるのが正しいだろう。
肥後傳関口流抜刀術の事実上の祖は井澤十郎左衛門長秀。名は節、亨斎または蟠龍軒と号す。元禄十年に家督を継ぎ四百石。その内の百五十石を弟に分知している。関口流を渋川伴五郎義方に学び、学問は山崎闇斎の門人。武芸者としてより国学者としての方が名高い。事実、著述も武家の有識故実や伝記・伝説の考証が多い。虚を廃して実を明らかにする思考を持つが、そのためか一方向から物事をみる傾向がある。藩の役職は熊本藩御鉄砲頭であった。
井澤長秀は寛文七年生まれ(一六六七)、渋川伴五郎義方より十五歳ほど年少であった。通説どおり渋川義方が二十九歳で江戸に出たとして井澤長秀は十四歳、仮に渋川が二十四歳で江戸に出たとすれば井澤長秀は九歳。武家は十歳前後から武術を学ぶことは普通であった時代であった事や井澤家が江戸詰であった事から考えれば学ぶことは充分可能であったといえよう。これを考えれば武義堂で武術を伝えていた当初は渋川流を唱えておらず、まだ関口流を名乗っていた可能性が高い。
渋川義方が江戸にでて生き残るためには「関口流」の流儀名を初期には使用したであろう、と考えるのは容易に思いつく。前記したように井澤長秀の年齢から極初期に入門することは可能であったことがわかる。尤も、これはその可能性がある、と言うだけであって決定的なものではない。渋川義方から井澤に送った伝書が見つからない限りは可能性のみで留めるべきであろう。
紀州関口流と肥後傳関口流
肥後傳関口流抜刀術において最も重要な技術は居合十一本と介錯の巻である。極端な言い方をすれば肥後傳における全てと言ってよいほどの技法でもある。まず本家である紀州関口流の居合と肥後傳関口流抜刀術の目録を比べて見る事から始める。
紀州関口流本家
居合
左釼
手拍子
青柳刀
笹露
雲打
恋釼
中段居合
流星
横可雲
小続松
下藤
車返
関口流抜刀術(肥後傳)
居合
抜打先ノ先ノ事
抜打込ノ事
左押飛違ノ事
左抜打先ノ先ノ事
右冠込飛違ノ事
右抜打先ノ先ノ事
上ゲ太刀ノ事
車剣ノ事
立刃押切込ノ事
左留太刀ノ事
巡懸切留ノ事
外 介錯ノ太刀ノ事
一目してわかることは技法分類とその名称の違いが目に付く。関口本家が「居合」と「中段居合」に分類しているの対し、肥後傳では「居合」という分類で一くくりにしていることだ。
技法名に関しては関口本家が抽象的・幻想的な日本武術の伝統的表現方法を踏襲しているのに対し、肥後傳は具体的・現実的な表現方法になっている。この理由について、いくつか想像することはできる。
一、風土及び時代によるもの
現代よりも江戸時代は各地の風土の違いがハッキリしていた。肥後国の人は質実剛健で現実的な考えを持ち合わせている。「勝つ以外無意味」という理念によって開創された宮本武蔵の二天一流が広まったのもそういった理由が大きい。
武蔵の二天一流は形を排して、現実的な教えを具体的な記述で表現している。
二天一流の記述に共通している流儀に無住真剣流がある。無住真剣流は形そのものを無くした特異な流儀、で目録といえるものに次の記述があるだけだ。
其一 撃 前進 用無先
其二 住 合進 用先先
其三 脱 後退 用後先
剣術における「先」のみを残した技法(体動)となり、具体的・現実的な表現方法はまるで現代の剣道のようにもみえる。
二、井澤十郎左衛門の思考と役職
井澤十郎左衛門長秀は武術家としてよりも国学者として知られていることは前述した。そのため虚構・幻想を排して真実・現実的な考え方が技法整理に影響してる可能性がある。また役職が『御鉄砲頭』であったことも影響があるだろう。
鉄砲の目録をみればわかるように幻想的な技法名はや記述は少ない。例えば廣瀬藩に伝承した菅谷流小筒定法之巻(文久二年、林新左衛門篤敬発行、十人者・小平太宛)を見ると、「筒仕込ノ事、薬込ノ事、星積ノ事、見込ノ事、格板定法ノ事、小目當目附ノ事、闇半月有明ノ事、薬込ノ事、膝台ノ事・・・・・・・」といったように具体的な方法が目録になっていることで理解していただけよう。
これらの影響が全く無かったとは言えまい。
三、渋川伴五郎義方の影響
井澤が入門した時期が関口流から渋川流への転換期あるいは過渡期だったのではないか想像している。無論、この時代に渋川伴五郎が発行した伝書を調べないといけないが、井澤と同門の岩本儀兵衛嘉品は関口流も渋川流も名乗らず「転心流」を名乗り居合と言わず「鞘離」と称したことで「渋川流の過渡期であったのでは」、と想像することができよう。
肥後傳における技法の具体的・現実的な分類記述は上記の三つが大きな要因になったのではと考えられる。
第二回 肥後傳関口流抜刀術の近現代史
現在の肥後傳関口流は宗家が複数いるが、肥後傳関口流が宗家を名乗るのは武術史的には無理がある。そもそも関口という冠が流儀名についていることや関口新心流(厳密には渋川流)から分派した事実を考えれば宗家ではなく肥後藩傳師範(もしくは肥後傳師範)という位置づけが正しい。